◇飯室谷にいく、、①
酒井阿闍梨の千日回峰行は認められた。が、一つ条件がつけられた。
これはすでに、酒井阿闍梨が叡山学院研究科を卒業したあと、本山交衆への加入を認めるかどうか、年齢が問題になって一山会議が開かれ、比叡山の規則が変更されたときからついていた「ただし書き」だった。特例を認める代わりに「ただし書き」をつけた。
その内容は、「将来は飯室谷(いむろだに)の箱崎文應師のもとで、起居する」というものである。先達会議は、酒井阿闍梨の千日回峰を認めると同時に、この「ただし書き」を適用させた。
箱崎師は、飯室谷の長寿院で一人で起居し、八十三歳の今もなお激しい行に生きている。これまで何人もの後継候補者がいたが、あまりの激しさにみんな一ヶ月ともたずに逃げ出した。そのため誰も居着かず、小僧さえいない。これは小林隆彰師の考えでもあったが、酒井阿闍梨なら根性も座っているから、「箱崎師の後継者になれるのではないか」との考えから、その条件のもとで酒井阿闍梨の千日回峰が認められたのである。
遡って、箱崎師は、昭和十八年無動寺谷で千日回峰行を満行している。しかし、様々な意見が噴出して正式の千日回峰行とは認められない。僧侶の位階が「中律師」であったことや、遥拝を実拝したことも、より長い距離の行を行ったことも問題視された。この時、手を差し伸べたのが、後の天台座主・山田恵諦師である。当時、長寿院の近くにある名刹松禅院の住職をしていた。それまで人が住んでいなかった飯室谷長寿院の住職になるなら一山に残してやろう、というものであった。
山田師は当時、「箱崎を何とかせにゃならん」と憂い、「お前さん、ここに入れ」と助け舟を出した。その折に、山田師は松禅院に伝わる飯室回峰の古い手文を箱崎師にわたし、「これで飯室回峰を復興してくれ」と託していた。それまでにとにかくやりたい人もいたが、許可が得られなかった代物である。
「天正十八年九月、横川、飯室谷松禅院第二世大阿闍梨慶俊、賜論旨(りんじ)」とある。
天正十八年は西暦一五九〇年で、この年、慶俊が飯室回峰を満行したのを最期に、記録に飯室回峰のことは出てこない。それを約三百五十年ぶりに復興したのが箱崎師である。
その後、箱崎師は怒涛の如く「行一筋」に歩いてきたが、孤高の行者であり、無動寺回峰が主流となって、再び、飯室回峰が途絶えることを山田師や小林師は危惧したと推測される。無動寺谷の上僧も、中々、箱崎師には「触れにくい」側面もあり「政治的配慮」がなされた産物ではなかろうか。
飯室回峰は箱崎師の「百日回峰」で復興されたが、飯室回峰の「千日回峰」を完全復興をさせるという重大な使命を、無動寺谷宝珠院の住職でありながら、箱崎師の世話をも酒井阿闍梨に託したのである。
比叡山延暦寺が、これほどにまで重要視する「飯室谷」とは、一体、、
続く、、
箱崎文應師については、こちらを。
https://ameblo.jp/yume-ichijo/entry-12810250385.html
https://ameblo.jp/yume-ichijo/entry-12810305717.html
参考文献
生き仏になった落ちこぼれ 酒井雄哉大阿闍梨 二千日回峰行
長尾三郎 著 講談社文庫