検証 石巻・大川小の惨事/証言でたどる51分間/黒い水、級友さらった | さくらのくに

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検証 石巻・大川小の惨事/証言でたどる51分間/黒い水、級友さらった

津波で壊滅状態となった釜谷地区。残った建物は大川小の校舎(中央左)と、道路を挟んだ釜谷診療所だけだった=4月8日、石巻市釜谷


 3月11日の東日本大震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった石巻市大川小。あの日、あの時、学校と地域で何が起き、人々はどう行動したのか。河北新報社の取材に応じた児童や保護者、住民らのうち5人の証言で、地震発生から津波襲来までの51分間をたどる。

◎午後2時46分~3時37分・5年只野君
震える脚、駆けだす/なぜ裏山に避難しないのだろう

 当時大川小5年生(現6年生)の只野哲也君たちの教室では、帰りの会が開かれていた。午後2時46分。声をそろえて「さようなら」と言いかけた時、揺れは襲ってきた。
 突き上げるような縦揺れに、横揺れが続いた。ガタン、ガタン。物が倒れる音が響く。「机の下に隠れろ。机の脚を持つんだ!」。先生の声に、哲也君は机の脚を自分の脚で押さえようとしたが、「体が回るようだった」。
 長い揺れが収まると、児童たちは校庭に避難し学年ごとに並んだ。靴下のままの子、上着を着ていない子。おびえて泣きだす低学年の女の子もいた。

<無線は1回>
 「大津波警報が発令されました。早く高台へ逃げてください」。午後2時52分、石巻市河北総合支所の職員が防災無線で呼び掛けた。校庭のスピーカーからも聞こえた。哲也君の記憶では、スピーカーが鳴ったのはこの1回だけだ。
 先生や地域の人たちは輪になり、何かを話し合っていた。指示を待つ子どもたちの列は徐々に崩れ、それぞれ小さな輪になって話し始めた。
 哲也君たちの輪の中に、涙を流している男の子がいた。「大丈夫だぞ」「こんな所で死んでたまるか」。みんなで口々に強気な言葉で励ました。
 「山さ逃げた方がいいんじゃね」「早くしないと津波来るよ」。近くにいた6年生の男子は、担任に訴えていた。
 この間に、母しろえさん(41)が哲也君と3年生だった妹の未捺さんを車で迎えに来た。先生は児童と保護者の名前を照合し、引き渡していた。
 忘れ物があったのか、しろえさんはいったん自宅に戻ることになった。「おっかあ、ヘルメット持って行って」。母を案じた哲也君は自分のヘルメットを渡そうとした。しろえさんは「危ないから、自分でかぶっていなさい」と受け取ろうとしなかった。
 「すぐ戻るからね」。2人の最後の会話となった。

<遠回り経路>
 「整列して。これから三角地帯に避難します」。先生の指示で、児童は新北上大橋たもとの堤防道路(通称三角地帯)に歩き始めた。海抜約1メートルの校庭より6、7メートル高い場所だ。直線で約200メートル。なぜか釜谷交流会館の前を通り、住宅地を抜ける遠回りのルートが取られた。「山に登れるのに、何で三角地帯なのかな」と哲也君は思った。
 高学年を先頭に、低学年が続いた。「津波が来ているから急いで」。教頭の声をきっかけに、みんな小走りになった。住宅地を抜けて県道を曲がった時、新北上大橋に波しぶきがかかるのが見えた。黒い水が堤防を越えて来た。
 がくがくと脚が震えて動けない。「授業中に寝ちゃって、夢を見ているのかな。でも、こんな長い夢はないよな」。次の瞬間、右脚が動いた。振り向き、裏山を目指して駆けだした。
 低学年の児童は、哲也君たちが走ってきた理由が分からず、きょとんとしていた。腰を抜かしたり、四つんばいになったりしている友達や先生の姿も目に入った。その中に柔道仲間の6年生の男の子がいた。「行くべ」。襟を何度も引っ張ったが、立ち上がれない。水の塊が近づいてきた。
 懸命に裏山をはい上がった。3メートルぐらい登ったところで「後ろから誰かに押されているような感じがした」。津波だった。頭から水をかぶると同時に、必死で木につかまった。土の中に押し込められるような激しい衝撃とともに、気を失った。

<はって進む>
 「てっちゃん、大丈夫か」。同級生の男の子が土をかき分け、助けてくれた。男の子は左手を骨折していた。津波にのまれたが、浮かんでいた冷蔵庫の中に入って、裏山にたどり着いたという。
 「助けてください。公民館があった場所の後ろの山にいます、助けて」。哲也君は震えながら、声を張り上げた。同じ裏山に避難していた大人たちが声を聞きつけ、来てくれた。雪をしのぐため、竹やぶに移動することになった。
 この時、哲也君は、足に力が入らないことに気付いた。「はってでも歩かいん」。おじさんに励まされ、何とか竹やぶに着いた。その日は山で一夜を明かした。
 避難所で父英昭さん(40)と再会できたのは、3月13日だった。「いつも強いおっとう」の涙を初めて見た。
 大川小にいた児童で、助かったのは4人だけ。津波は友達だけでなく、母と妹、祖父弘さん(67)を奪った。
 哲也君は津波にのまれた時、顔に大けがをして、しばらく物が二重に見えた。でも、しろえさんが「かぶっていなさい」と言ったヘルメットに守られた頭は無事だった。「おっかあが守ってくれた」。そう信じている。

◎3時30分~37分・住民高橋さん
避難の叫び届かず/「大丈夫」顔見知り、笑顔で手振る

 石巻市釜谷地区に住む高橋和夫さん(63)の自宅は北上川沿いを流れる富士川の堤防近くにあった。揺れの直後、外へ出ると、近くの畑からぶくぶく泥水が湧いていた。
 「宮城県沖地震の時と一緒だ」と思ったが、津波が来るという危機感はなかった。家に備え付けの防災無線は鳴らず、大津波警報は知らなかった。
 「おい、堤防から水越えてるぞ。津波じゃないか」。午後3時半ごろ、近所の人の叫び声が聞こえた。北上川からあふれた泥水が約4メートルの堤防を越え、並行する富士川に流れ込んでいた。みんな慌てて車に乗り、避難を始めた。高橋さんも軽乗用車で堤防沿いを飛ばした。「逃げるならあそこしかない」。目指したのは大川小の裏山だった。

<外で世間話>
 県道沿いの住宅地では、まだ多くの住民が外で世間話をしていた。「逃げろ! 津波が来るぞ!」。窓を開けて怒鳴る高橋さんに、顔見知りは「大丈夫」と笑顔で手を振った。「危険と受け止めてくれる人はほとんどいなかった。みんな、津波が来るなんて想像していなかったんだ」
 裏山まであと少しのところで、いとこ夫婦が釜谷交流会館の方から来た。「駄目だ、戻っちゃ駄目だ」と説得したが、「家におばあさんがいるんだ」と応じない。引き留められなかった。

<「何でまだ」>
 裏山に着く寸前、校庭に子どもたち数十人の姿を見た。釜谷交流会館の前にも10人ぐらいいる。「何でまだここに」。裏山のふもとに車を止めて降りた時、背後から「ドーン」と重い響きが聞こえた。振り向くと、家が壊れるバリバリという音と、煙のような黒い壁が迫ってきた。
 「上がれ、上がれー!」。山に向かって走りながら叫んだが、みんな次々と水にさらわれていった。高橋さんも後ろから、津波の気配を何度も感じた。追い付かれまいと、斜面をはい上がった。
 眼下には水にのまれた集落が広がっていた。2階建ての校舎も体育館も濁流にのまれ、辛うじて見えた校舎の屋根にはがれきが乗っていた。
 しばらくして、助けを求める声が聞こえた。声を頼りに山沿いを歩いていくと、がれきだらけの泥水の中、木の枝をつかんで懸命に耐える女性や子どもの姿があった。
 「今助けてやっからな」。まず小学校低学年の女の子に手を伸ばした。水に落ちながらもやっと手をつかみ、周囲のがれきでけがをしないよう、そっと引き寄せた。その後も5、6人は助けただろうか。校舎側の斜面でも、波に運ばれてけがをした中学生を救出した。
 雪は本降りになっていた。みんな唇は紫色で震えていた。「ここにいたら凍死する。竹やぶに移動しよう」。全員が高橋さんに従った。別の場所で助かった只野哲也君や石巻市職員らも合流した。
 救えない命もあった。川から内陸へ流されながら「助けてー」と叫ぶ子どもたちがいた。声の方向に目を凝らした。流れが急な上、がれきや建材に阻まれて姿が見えない。声は次第にか細くなり、遠ざかっていった。
 「自分一人ではどうしようもなかった。でも、助けたかった」。高橋さんは涙を浮かべた。

◎2時57分~3時29分・児童の父親三條さん
校庭の妻から伝言/とんでもないことになっている

 携帯電話のボタンを何度押してもつながらない。北上川下流の石巻市長面に住む三條真一さん(44)は車で自宅方面に向かいながら、妻早苗さん(48)と高校1年の長男友輔君、大川小3年の次男皓聖(こうせい)君の無事を確かめたくて、やきもきしていた。
 「道路はほとんど地割れしているので気をつけてください」。午後2時57分、友輔君が携帯電話のメールで大川小付近の道路の状況を伝えてくれた。早苗さんの車で皓聖君のいる学校を目指していたとみられる。
 「大変だ。とんでもないことになっている」。午後3時11分、早苗さんは災害用伝言サービスにメッセージを残していた。三條さんは「やっとしゃべっているような、震えた声だった。大川小に到着し、校庭の混乱ぶりを伝えようとしたのではないか」と推し量る。
 学校まで5キロに迫った午後3時15~20分ごろ、北上川をさかのぼる流れが見えた。津波の第1波で、「堤防を越えるかと思うくらいの勢いだった」。慌てて近くの山に避難した。
 三條さんは何度か下流に向かおうとしたが、通行止めで近づけなかった。大川小の被害を知ったのは2日後。妻と2人の息子は遺体で見つかった。
 震災から4、5日がたち、ようやくつながるようになった携帯に1通のメールが届いた。「友と皓と小学校にいます」。送り主は早苗さんだった。受信日時は3月11日午後3時29分。津波が襲来する直前に発した最後のメッセージとなった。

◎3時20分~37分・市職員山田さん
まるで滝、堤防越す/濁流、駆け上がるように迫ってきた

 午後3時すぎ、石巻市河北総合支所職員の山田英一さん(56)は広報車に乗り、北上川下流を目指していた。海に面した長面・尾崎地区で水門の見回りや住民の避難誘導に当たるつもりだった。
 北上川の左岸沿いから新北上大橋を渡り、大川小のある釜谷地区を通過。海岸まで2キロ余りに迫った午後3時20~25分ごろ、海に閃光(せんこう)が走った。
 「何だ、あれ」。次の瞬間、海岸沿いの松林を波しぶきが突き抜けた。間髪入れず、高さ20メートルはある松を超えた大波が迫ってきた。「のまれる」。ハンドルを切ってUターンし、アクセルを踏み込んだ。
 釜谷地区ではまだ多くの住民が避難していなかった。助手席の同僚はマイクを持ち、「高台に逃げろー。松林を津波が越えてきたぞー!」と叫び続けていた。
 市教委によると、大川小周辺にこの声が聞こえたのは午後3時25分ごろ。校庭に待機していた児童が新北上大橋の堤防道路に誘導されるきっかけになったとされる。
 家族の身を案じ、上流側から戻ってくる車も相次いでいた。午後3時半ごろ、山田さんは堤防道路で釜谷地区に入ろうとする車を止め、雄勝方面の峠につながる国道398号へと誘導し始めた。
 住民たちは「まだ家に家族がいるんだ!」「通してくれ!」と訴えた。「津波が来る」と説得するのに必死で、小学校の様子や川の水位を確かめる余裕はなかった。
 誘導が一段落し、ふと川を見た。目を疑うような光景が広がっていた。
 川の水位は表面張力で膨らんだように堤防を越え、漁船が堤防より高い位置を逆流してきた。橋桁には下流から運ばれた木やがれきがたまり、流れをせき止めていた。
 北上川からあふれた水が富士川に滝のように流れ込んでいた。堤防道路は富士川より5~6メートル高かったが、「川に流れ込んだ水が駆け上がるように迫ってきた。本当に不気味だった」。
 山田さんはとっさに別の車で避難誘導していた同僚4人とともに、大川小の裏山に駆け上がった。山田さんの助手席で最後まで避難を呼び掛けていた同僚1人は波に巻き込まれた。
 津波は堤防道路をのみ込んだ。水の塊が向かった先には、子どもたちの列と大川小があった。

◎3時10分~20分・児童の母親
教頭、住民に尋ねる/この山に子どもを登らせて大丈夫か

 学校につながる堤防道路は所々に亀裂が入り、その都度、車のスピードを緩めなければならなかった。大川小の児童の母親が、北上川上流にある自宅から学校の校庭に着いたのは午後3時10分ごろ。児童や住民ら100人以上がいた。
 「この山に子どもたちを上がらせるとしたら、大丈夫でしょうか」「崩れる山でしょうか」。教頭が学校の裏山を指さし、4、5人の住民に問い掛けていた。住民たちは「ここまで津波が来るはずがないよ」「大丈夫だから」と答えていたように記憶している。
 わが子を引き取り、車に乗せて学校を出た。午後3時20分ごろ、新北上大橋を通り過ぎた先で警官に止められ、「危ないから、釜谷に戻って」と指示された。バックするにも、後ろには長い車列ができていた。
 「お願いです。家に戻りたいんです」。制止する警官とやりとりが続いたが、結局押し通した。夢中で車を走らせ、自宅に着いた。「あの時は、本当に津波が来るなんて思わなかった」

河北新報 2011年09月08日木曜日
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_04.htm