天皇の妻となって11年、3人の子を残して崩御した中宮、藤原定子。

一条天皇の側近を務めていた藤原行成の日記に記述があります。

 

後に権大納言となった行成の残した日記であるところから権記の名称があります。

 

権記には前日の12月15日、東西の山にわたって二筋の白雲が月を挟むという、不吉な天象(不祥雲)があったと言います。

 

翌16日の朝、不吉な予兆が現実となり、定子崩御の一報が入りました。

確認したところ、定子は午前5時頃(寅刻の終わり)には崩御していたようでした。
 

西暦1000年(長保2年)12月16日の未明、一条天皇の第三子・女二の宮(‎媄子内親王)を出産した直後に亡くなります。

 

享年24歳(数え年)でした。
 

 

当時は出産で母子共に命を落とすことも多い時代でしたが、定子は一条天皇との第三子の皇女を無事に出産した後、体力が尽きて亡くなったのでした。

 

もちろん、はっきりとした死因は分かりませんが、胎盤が出てこないという記述から、癒着胎盤による大量出血などの死因が推測できます。


脇息にもたれ掛かって亡くなっていたとの説から、妊娠中毒症(妊娠高血圧症候群)により産後に脳出血を起こした可能性も考えられます。

 

 

比較的安産であった過去2度の出産とは明らかに体調の違う3度目の懐妊に、ある種の覚悟を覚えていたのでしょうか。

 

定子は一人で遺詠の和歌を詠み、寝室の几帳の紐に結び付けたと考えられます。
その歌は、出産と崩御の騒動が一段落した時に見つかりました。

 

[ 夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき ](後拾遺和歌集)
[ 知る人も なき別れ路に 今はとて 心ぼそくも いそぎ立つかな ](後拾遺和歌集)

 

[ 煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ ](栄花物語)

 

かくして定子は、当時主流だった火葬ではなく土葬に付されたのでした。

 

 

 

これ以降に胎盤の画像があります。

苦手な方はここで退出して下さい。

 

 

総合病院に勤務していた時、職員(職能)カーストの最下層におりましたので、感染廃棄物の取り扱いも担当の一部でした。

 

病理検査が終わった臓器とかは感染性廃棄物として完全密閉容器に封入し、処理業者に引き渡す事になっております。

 

産科(分娩室)から出て来る胎盤もその感染性廃棄物の一つでした。

 

 

通常、胎盤は出産後5~6分ほどで子宮壁から剥がれて自然に娩出されますが、時に全部または一部が娩出されずに子宮内にとどまることがあります。

 

胎盤が正常に剥がれない、剥がれた胎盤を娩出できない、などが原因です。

 

胎盤が正常に剥がれない場合は、子宮内に手を入れて子宮壁から胎盤を剥がす「胎盤用手剥離術」(たいばんようしゅはくりじゅつ)が行われたりします。
 

胎盤や卵膜の一部が子宮内に残っていると、ときに大量出血となることもあり医療過誤として訴訟に発展することもあります。

 

 

CTやMRIなどの診断装置がまだまだの頃の話ですが、隣家のお嫁さんが突然の大量出血で亡くなった事がありました。

 

産院から戻ってきて暫くして、ちょっとした重いものを持とうとしたらしく、大量出血に見舞われたと聞きました。

 

2ℓもの出血があると命の危険があるとのことです。

中宮定子の身にもそうしたことが起こった可能性があります。