山形市山寺地区。

宝珠山立石寺。

 

慈覚大師という諡号を送られた円仁という天台の僧が開基とされています。

西暦で言えば860年と言いますから1160有余年の歴史があります。

 

伝教大師が灯したという不滅の法灯が延暦寺より分灯され今に至っております。

信長による延暦寺焼き討ちにて途絶えてしまった本家本元の延暦寺の法灯。

 

一旦途絶えた不滅の法灯が、今度は立石寺→延暦寺の逆ルートで運ばれ、伝教大師の不滅の法灯は再び延暦寺に灯っています。

 

さて、そうしたエピソードがある円仁さん開基の宝珠山立石寺(通称山寺)。

円仁さんは天台宗発祥の地で、天台教学を研鑽すべく唐に赴きました。

 

「入唐求法巡礼行記」(にっとうぐほうじゅんれいぎょうき)という日記形式で記録を残した円仁さん。

 

当時の標準的な記録形式は漢文。

なので、当然ながらアタクシには読めませんが、記述は細心にして詳細なのだとか。

 

ただし、円仁さん個人の所感とか情感とか、旅の風情とかの記述はほとんどなく、無味乾燥な記述とも取れる備忘録的日記のようです。

 

 

土佐日記

 

旅の徒然を書き留めて、読む人の旅情を搔き立てる日記文学の出現は「土佐日記」まで待たねばならなかったようです。

 

「男もすなる日記なるものを女もしてみむとてするなり」。

という有名な言葉で始まる土佐日記。

 

作者は紀貫之、オトコです。

 

なのに女を騙って日記を書いた理由は、文体が漢文(男文字)ではなく仮名(女文字)である事にあるようです。

 

つまり、その当時の男性には仮名などを使うのは「以ての外」という風潮があった様なのです。

 

結果的に女を装って紀貫之を隠し、更には色々な分身を登場させることにより、あれやこれや面白きことや辛辣な事を書き連ねることができたようです。

 

紀貫之という「素」を出したら、人には見せられない、現代で言うなら炎上してしまいかねない事共の記述があるといいます。

 

かくして土佐日記は評判を呼んで後代の松尾芭蕉にも影響を与え、「おくのほそ道」などの紀行文にもそれが現れているとかや。

 

 

今年の大河ドラマにも日記が登場しました。

藤原実資さんが書いた「小右記」、藤原兼家の第二夫人が書いた「蜻蛉日記」など。

 

「蜻蛉日記」では記帳者のキャラが創られています。

 

その設定は「ごく当たり前な女」「容貌は十人並み以下」「自分の人生を無駄にした女」と言うことになります。

 

その実態はと言うと、藤原兼家の妾妻にして次男の母(藤原道綱の母)。

三大美女の一人にして和歌の才は抜きん出ていたといいます。

 

才媛にして羨まれる女性ではなく、悩み多い顧みられることもない女性として自分を位置づけ、離婚を決意するまでの20年間を日記に認めました。

 

時姫という正妻の存在がありますから、妾妻という立場は生き難いものだったでしょうか。

 

因みに藤原道綱は大河ではおバカキャラの設定になっており、ちょっとカワイソな面もあって出世速度も遅く、異母弟の道長に軽く追い抜かれてしまいます。

 

道綱の母が書いた「蜻蛉日記」があるからこそ、兼家からの伝聞とはいえ宮中の日常とかスキャンダルめいたことなど、様々な事が今に伝わっている訳です

 

 

紫式部が書いた「紫式部日記」や和泉式部が書いた「和泉式部日記」なども登場するのでしょうか?。

 

藤原道長が書いた「御堂関白記」が出てきたら面白いと思うのですが・・・。

 

さて、本日のオラ日記には何を記しましょうか。

 

はいしゃ のとなりの かいしゃにいった、はみがき はーみー しゅこしゅこ しゅっしゅ

・・・、だめだこりゃ。