阿津賀志山 奥州合戦
亡父藤原秀衡の遺志にもとり、鎌倉幕府との和平の道を探るべく、その講和の条件として源義経を自害させた4代目藤原泰衡。
だが、鎌倉幕府による全国統治を進める源頼朝は、文治5年(1189年)に奥州藤原氏の討伐のため鎌倉を出立。
侵攻してきた鎌倉軍はおそよ2万5千。
対する奥州藤原迎撃軍はおよそ2万。
ここ阿津賀志山(現福島県国見町付近)で、藤原氏の存亡を賭けた奥州合戦が開戦されました。
激戦が続く中、鎌倉軍の奇襲攻撃が功を奏し藤原軍は大混乱に。
遂に藤原軍は大敗し、根拠地平泉に退却。
もはや組織立った合戦能力をなくした藤原軍。
遂には郎党の裏切りにより4代目藤原泰衡は殺害される。
ここに奥州藤原氏は滅亡。
その奥州合戦の舞台となった、福島県国見町を眺望 ↑
戊辰戦争 母成峠の戦い ↑
戊辰戦争での新政府軍は白河を突破し、二本松をも陥落させ、会津藩を東方面から攻撃できる態勢にありました。
新政府軍は主要な街道であった中山峠から殺到すると予測した会津藩は、南西方面と南東方面の防備を固めました。
新政府軍は中山峠に部隊を派遣しましたが、それは陽動作戦。
手薄となっていた母成峠へと本隊は向かいました。
母成峠(現福島県郡山市・猪苗代町)を守備する会津藩兵はおよそ800、兵力も火力の差も歴然。
母成峠を突破した新政府軍は会津若松城下に雪崩を打って殺到。
戊辰戦争の悲劇が始まりました。
何かと美化される事もある、「白虎隊」。
いわゆる正規軍ではない少年兵です。
若松城(鶴ヶ城)が陥落したと思い込んだ彼らは、もはやこれまでと飯森山にて自刃。
その場面が絵図として残っていますが、実際は直視するに堪えない凄惨を極めたものであったでしょう。
一方で家老西郷頼母(たのも)の家族は屋敷の一室で、夫の頼母に後顧の憂いなく戦って欲しいと幼子を含み全員自害。
新政府軍が屋敷内に入った時に、一人死にきれずに苦悶する長女が「味方なら介錯して欲しい」と頼んだとされます。
「味方である」と言ったのは、土佐藩の中島信行でした。
ここも凄惨な場面であったろう事は云うまでもありません。
かくして、母成峠の戦いが会津戦争ひいては戊辰戦争全体の趨勢を決したと言えるようです。
会津の劣勢が決定的になると、米沢上杉藩や庄内酒井藩などの奥羽越列藩同盟も瓦解してゆき、降伏していく事になります。
ひがみ根性と言われればそれまでですが、こうして東北は数度に亘り侵略された歴史があるのです。
薩長の新政府にとって、「白河以北一山百文」の東北などさほど重要ではなかったようで、未だ美しくも未開の山河が多く残ります。