❷「由利高原鉄道鳥海山ろく線で目的地へ行こう」篇<04>
これまで列車交換などで少し長めの停車することはあっても,降りたことはなかった
木目調で整えられた駅舎内は初めて訪れたので,まずは記録から始めましょう
帰りの発車時刻は現状に合わせて再度確認しておきます。何らかの理由で変わっていて,乗り遅れたら大変だしね
さらに現地の案内地図でこれから歩くルートを確かめたり,リストアップしていた「目的地」以外に気になる場所がないかと探しておこう 元はといえば車内からでも見える「小学校」の近くにあり,解説板らしいものがあったので「前郷」駅から直ぐそばとばかり思っていた。しかし改めて調べてみれば城跡であった「小学校」は移転したことが分かったからね。
現在の「小学校」と反対側から出発し,手に持ったタブレットの地図もなぞりつつ歩く手に傘は重かった
やがて更地になった広い草地は「小学校」の跡地らしかった🦗 「グラウンド跡」は【本丸跡】であった。
間に車道を挟んで整備がいきわたったエリアをしばらく歩いたら,ようやく探していた解説板を見つけた 「旧前郷小学校」があった場所は【二の丸跡】みたい。
子吉川中流域を見渡す平城滝沢城跡
滝沢城跡は、子吉川の低地に突き出た標高一七mの
河岸段丘南端に立地します。滝沢城は、山形の大名最上氏
の由利郡進出に伴い家臣となった滝沢兵庫頭政道が慶長
八(一六〇三)年から同一一年にかけて築城した平城で、元和
八(一六二二)年に最上氏が所領没収されたことに伴い廃城
になりました。
城跡のある前郷地区は、滝沢氏が城とともに整備した
城下町です。町割の要所に食い違いの変形十字路があるな
ど、城下町の特徴的な造りが現在も良く残されています。
江戸時代の『出羽国最上記』には、滝沢城の本丸・二の丸・
三の丸、内堀・外堀等の城の規模が記されていますが、絵図
などが残されていないことからそれらの配置等の詳細は
不明です。しかし、「滝沢舘」「古堀」の小字名や地形から、
滝沢城の配置が想定され、城の範囲は現在の前郷地区の
約四分の一を占めていたと考えられます。
これまでの発掘調査では、内堀、井戸、掘立柱建物、溝など
が確認されたほか、滝沢城で使われていた戦国時代から江戸
時代初頭の椀や皿、漆塗の椀、箸、摺鉢、柄杓、刀子、硯、下駄
などが見つかっています。
滝沢城では築城から廃城までわずか二〇年ほどしか存在し
ませんでしたが、その期間は滝沢氏と同じく最上氏家臣の
本城氏による本城城(本荘城)築城期にも当たり、江戸時
代初めの統治の歴史を示す重要な遺跡です。
平成16年度末までこの地にあった「記念碑」や昔の学校にはよくあった「二宮金次郎像」。周辺には「土塁」らしい遺構もあるのに,この天気でさらに見学する気力はそがれてしまうのであ~た
「想い残しの城跡をローカル線で訪ねて」篇(20241004)🐕