⑤「午前中は鉄分補給から歴史の時間に変えて」篇 | 杜のイーグルスのブログ

⑤「午前中は鉄分補給から歴史の時間に変えて」篇

俺が旅行計画を作る際には,まずはメインとなる。つまり「旅の目的」の場所や時間を固定した後,間の時間の長短によって必要な場合はそれを埋める用件とか「目的地」を考えて行くようになるのです。

 

今回のプランでは移動に関わる交通手段は全く変えなければならなくなったが,映画の上映時間はそのまま。15時35分からの上映時間までを改めて検討して来たのでひた時計

 

 

いま路肩を見つけて写真を撮ることができるようになったのは9時半過ぎ⌚ 当然ながら移動中は車を運転しているので,写真を撮ることはできない注意

また,鉄道や路線バスと違い自家用車は時間的にも運用でもかなり自由が利くが,逆に固定した運行時間が決まっていないため記録に残すには不便である叫びピリピリ

ホテルの駐車場を出たのも記録していないので,走行距離は何とかなっても所要時間はどのくらい掛かったか!?

 

 

次に停まることができたのは5分後。是非とも寄りたかった「あつみ温泉」駅前です。最初はこれまで東北地方でも訪れていない“羽越本線”を「鶴岡」駅から南下して,県境の次の「鼠ヶ関」駅までを往復する案を考えてみた!

 

現在の「鶴岡」市は平成の大合併でかつての「藤島町」「羽黒町」「櫛引町」「朝日村」「温海町」と旧「鶴岡市」が合併したものであり,これまでドライブで「藤島」エリアの『旧東田川郡役所及び郡会議事堂』や『藤島城址』は見て廻っているのでひた拍手

 

 

しかし実際にダイヤを調べてみれば運行本数が少なく,許容時間内では戻って来られないことが判明したため,逆方向に行って「酒田」駅を経由して「羽後本荘」駅で”由利高原鉄道鳥海山ろく線”の想い残し駅まで行くつもりでいたのでひたOK

 

ここには近頃知った「温泉むすめ」のご当地キャラクターもいたんだぁ~叫び

 

 あつみ 詩鶴

 

 

駅前から見えた日本海や走り出してから途中でのぞいた今は運休中の鉄道橋を撮ってみる。全編鉄道旅で過ごす予定だったのが大雨被害で諦めた計画で,当初のスケジュールを白紙に戻して代わりに作ったのは一番初めに浮かんだ「鼠ヶ関」へのドライブ歴史旅行。

 

 

「国道7号線」”羽州浜街道”を日本海沿いに南下しはじめて,やがて時間は10時になろうとしている。休憩を兼ねて写真を撮れる場所を見つけてちょっと寄り道コーヒー

 

 

地図で確かめれば 現在地 は,もうすぐ県境というところまできたのか虫めがね

 

 

  鶴岡市指定                           

  史跡念珠関址  

    こ の 奥               

 

                                    勧 進 帳 の 木 家 

 

普通に走っていたら急に見止めた標識は,予備知識で交差点近くと知っていたデータと合致したので信号を左へと入ります🚥

 

        

    歓  迎     

  ねずがせき 

 

  ここは念珠関  

    関所跡です 

 

              ね  ず  が  せ  き  し

 史 跡 近 世 念 珠 関 址

  関所の変遷

 

  鼠ヶ関(鶴岡市鼠ケ関・旧念珠関村)には     関守りは、最上氏時代の慶長年間から鼠ケ

関所址が二ケ所ある。ここ(鼠ケ関字関)に    関の楯主佐藤掃部が国境固役に当たった。

慶長年間(一五九六~一六一四)から明治五  酒井公転封後の寛永五年(一六二八)からも

年(一八七二)まで設置されていた近世の関    鼠ケ関組大庄屋となった掃部が代々上番と沖

所址と、ここから南方約一キロメートルの県    の口改役となり、下番は足軽二人がいた。天

境にある古代の関所址である。             和二年(一六八二)以後は藩士が上番となり

古代の関所 鼠ケ関は、勿来関、白河関と並   掃部は追放者立会見届役となった。

んで奥羽三大関門の一つとされていた。この

鼠ケ関が文献に現れる最も古いものは、能因   鼠ケ関と源義経

の歌枕の「ねずみの関」であり、十世紀ころ

には文人や旅人に親しまれていた。            「義経記」の義経一行奥州下りの鼠ケ関通

  大正十三年(一九二四)近世の関所址を主   過の条は、歌舞伎の「勧進帳」を思わせるご

たる対象に、内務省より「史蹟念珠関址」と     とき劇的場面として描かれている。また、当

して指定をうけ、それ以後この名称が古代か    地方には次のような物語が伝えられている。

ら近世に至る関所名とされてきた。           義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来

                                        るが、馬下からは船で海路をたどり鼠ケ関の

     ねずがせきし            

 古代鼠ヶ関址                         浜辺に舟を着け難なく関所を通過した。そし

                                           て、関所の役人の世話する五十嵐治兵衛に宿                 

  昭和四十三年(一九六八)十月、山形、新潟、 をもとめ、長旅の疲れをいやし、再び旅立っ

両県境一帯の発掘調査により古代関所址の存  て行ったという。

在が確認された。 遺跡は、棚列址、建物址

須恵器窯址、製鉄址、土器製塩址が地下一メー

トルほどの所に埋蔵されており、関所の軍事

施設と高度の生産施設をもつ村の形態を備え

ていた。この遺跡の年代は、平安中期から、

鎌倉初期の十世紀から十二世紀にわたってい

る。これらを総合して「古代鼠ケ関址および

同関戸生産遺跡」と名付けられた。

 

     ねずがせきし            

 近世念珠関址

 

  このように、古代の関所址の貌が明らかに

なったことから、関にある近世の関所址を、

「近世念珠関址」とし、「古代鼠ケ関址」と

を区別することにした。

  近世念珠関は江戸時代には「鼠ケ関御番所

と呼ばれていた。その規模は延宝二年(一六

七四)や弘化三年(一八四六)の絵図による

と街道に木戸門があり、門に続いて柵が立て

られていた。番所の建物は三間(約六メート

ル)に七間(約十四メートル)平屋建、茅葺

で屋内は三室に仕切られ、中央が取調所、両

側が役人の上番、下番の控室であった。また

この番所は沖を通る船の監視や港に出入りす

る船の取り締まりもしていた。番所の建物は

廃止後、地主家の住居となり、後に二階を上

げるなど改築されたが、階下は昔の面影をと

どめている。

                                                   鶴岡市教育委員会

 

 

民家の庭先らしい場所に立てられている門は,往時には「九尺」「木戸門扉有」の冠木門だったのだろう。ただ、どこまで入り込んで見学していいのか分からなく,いつおこられるかドキドキしたまま写真を撮っていたカメラキラキラ

 

  史 蹟 念 珠 關 址 

 

 

ちょうど交差点角に位置しているので分かり易いが,ちょっと史跡へのは入口が分かりにくかったかな叫び汗

 

改『「鶴岡まちなかキネマ」映画鑑賞鉄道プラン愛と調べ』篇(20240726-27)