“暑い。長い。。。”/➃「土浦歴史探訪リターンと駅前で映画鑑賞を」篇 | 杜のイーグルスのブログ

“暑い。長い。。。”/➃「土浦歴史探訪リターンと駅前で映画鑑賞を」篇

涼しい館内で休憩を取り,自販機の缶ジュースで水分補給も済ませたのに蓄積した疲れは映画館まで無事に戻れるだけのエネルギーを残しているだろうかあせる

 

 

そういえばある城では濠に住む大亀が姿を現すと必ず藩主が交代すると言われていたっけ🐢 してっ魚たちが口をパクパクさせているのも餌が欲しいのじゃなく,水中の酸素が不足しているんだよね🐟

 

 

んでっ、「東櫓」の内部の見学は2度目だし前回も説明文は全て割愛しているから今回もそうしよう注意

 

 

まあっ他の人が気にもしないような天井の梁の様子や堀を眺めるのに写真を撮ったりしたりしてカメラキラキラ

 

 

今日も櫓内は暑く,荷物も肩に食い込んでくるのでは知識を深めるよりもちょっとでも早く終わらせたいばかりガーン

 

 

はい! これで終了ピリピリ

 

 

あとは地図を頼りにできるだけまだ見ていない史跡をひとつひとつ廻って行きたいあし

 

 史指定史跡 搦手門の跡

 

 

既に来ているところもあるけど,それはそれとして。

 

亀城公園案内図

 土浦城は別名「亀城」とも呼ばれています。室町時代頃に築

かれ、戦国時代には小田氏と佐竹氏の戦いの舞台となりまし

た。江戸時代前期の〔藤井〕松平氏・西尾氏・朽木氏の時に

おおむね整備され、17世紀終わり頃〔大河内〕松平氏の時に

近世軍学による大規模な改修が行われました。なお土浦藩は

江戸時代中期以降に城主となった土屋家の時に藩領9万5千石

となり、常陸国内では水戸藩に次ぐ領地の広さを誇りました。

 明治時代以降、本丸跡には新治郡役所等が置かれましたが

後に移転し、昭和9年(1934)に本丸及び二ノ丸の大半を整備した

「亀城公園」が完成しました。昭和27年(1952)には「土浦城跡

及び櫓門」として茨城県指定史跡第1号となりました。

 櫓門は明暦2年(1656)に改築されたと伝えられ、本丸に建つ

江戸時代の櫓門としては関東地方で現存する唯一のものです。

階上に太鼓を置き、時刻を知らせたことから「太鼓櫓」とも

いわれます。

 公園内にはこのほか霞門(現存)、旧前川口門(1980年現在

地へ移設)、西櫓(1991年復元)、東櫓(1998年復元)、本丸の

土塀(2005年復元)などがあります。

 

  土浦市景観重要建造物 指定第4号「土浦城址歴史的建造物」

  指定年月日 令和3年7月13日

 

 

探していたのは・・・

 

 市 指 定 史 跡 大 手 門 の 跡

 

んでも、隣に歴史を感じる解説板があるのをスルーできない俺叫び

 

      土浦市立土浦幼稚園

 

  土浦幼稚園は、明治十八(一八八五)年に土浦西

小学校(現土浦小学校)付属幼稚園として、この地

に開園しました。当時、茨城県に幼稚園はまだなく

土浦幼稚園は県下で最初に設置された幼稚園です。

当時の幼稚園は、公私立合わせても全国で三十園程

度でした。

  土浦幼稚園には、ドイツの教育家フレーベル考案

の恩物をはじめとする明治期の幼児教育玩具や教材

また、昭和二(一九二七)年に日米友好親善使節と

してアメリカから贈られた「青い目の人形」など貴

重な資料が残されています。これらの資料は土浦市

立博物館で保管し、展示公開されています。

  平成二十四(二〇一二)年四月にいくぶん幼稚園

と統合し、新しく文京町に移転しました。

 

 

大手門の跡

 この付近には、土浦城の正門(表門)である大手門

 があった。それは、二門を備えた内桝形であり、

 外側が□□の門、内側が二階の櫓門であった。

 記録によれば元和8年(1622)に建てられ、明治

 6年(1873)に取り壊されたとされる。

 

 現在地 から次は「中城通り(旧水戸街道)」まで出て残りの史跡を拾っていくことにします。

 

 

水戸街道と町並み「土浦宿」

水戸街道は慶長九年(一六〇四)に整備

された五街道に次ぐ重要な道路で、土浦

城下を南から東(霞ヶ浦)側を回って北

に向かっています。土浦宿は日本橋より

一八里半(約七四キロメートル)の距離

にあり、千住で日光街道から分かれた水

戸街道十一番目の宿場町です。土浦宿に

は、大町〔享保一二年(一七二七)築〕・

田宿町・中城町からなる中城分の町と、

本町・中町・田町・横町からなる東﨑分

の町があり、それぞれに名主が置かれて

いました。大名などが宿泊する本陣は、

本町の大塚家(現土浦商工会議所)と、

大田家(寛保二年(一七四二)まで)・山

口家(まちかど蔵大徳脇の道奥・延享元

年(一七四四)以降)が務め、この二つの

本陣を中心に旅籠、問屋、商人宿、船宿、

茶屋、商家などが軒を連ねていました。

 

 

さあ、この道路に面して並んだ建造物たちを見たら終わりにしようドンッ

 

県指定建造物

 矢口家住宅(付、家相図七枚)

 

  この建物は土蔵造りで、店蔵(主屋・向かって右)

と袖蔵(向かって左)、別に建てられた奥の元蔵より

成る。旧水戸街道に面した店蔵・袖蔵の間口は合

わせて七間半である。

  土浦城下の土蔵造りは、天保十二年(一八四一)

の大火後、瓦葺などと共に防火の備えとして取り

入れられたものである。

  この建物の建築年代は、店蔵と袖蔵が嘉永二年

(一八四九)、元蔵が慶応年間(一八六五~六七)

で、県内に現存する土蔵造りの商家建築のなかで

は特に貴重なものである。

  なお、天保九年(一八三八)以降の家相図が七

枚残っており、間取りの変遷を知ることができる

価値の高いものである。

    平成十一年(一九九九)三月

           土浦市教育委員会

           文化財を大切にしましょう

 

矢口家住宅の見学をご希望される方へ

「まちかど蔵野村」に詰めている

「土浦市観光ボランティアガイド」にご相談ください。

 

対応日:土曜・日曜日・祝日

時  間:午前10時~午後3時まで

 

  不在の時は土浦市観光協会(まちかど蔵大徳)まで

                   お問い合わせください。

 

 

ラストのチェックポイントの手前に建てられていた案内板に、

 

 沼尻墨僊の塾(寺子屋)跡

 

  沼尻墨僊(一七七五~一八五六)が琴平神社境内に塾

「時習斎」を開いたのは江戸時代後期、享和三(一八〇三)

年のことである。

  墨僊は号で、名を一貞、常治と称した。田宿町で薬種

製造を営む中村治助の第九子として誕生し、生後まもな

く町医沼尻石牛の養子となった。長じて塾を開き、近隣

の子らの教育にあたった。

  墨僊は太田天錫(土浦藩士)らに師事し、叔父沼尻修

平(陸其章)に筆法を学んだ。漢詩・書道・絵画をよく

し、天文学や地理学に明るく、「地球万国図説」(市指定

文化財)を著し、安政二(一八五五)年には傘式地球儀の

名で知られる「大輿地球儀」(市指定文化財)を制作・出

版している。

  のちに「天章堂」と改名した塾では読み書きだけでな

く、墨僊の広範な知識をもとに素読など高度な教育が行

われた。安政三年に墨僊が亡くなるまで入門する子弟は

絶えず、塾生は述べ六百人を越えた。

  墨僊の没後、塾は子墨潭(就道)が継ぎ、明治四(一

八七一)年まで続いた。

 

     平成二十六年(二〇一四)三月    土浦市教育委員会

 

           文化財を大切にしましょう

 

 

「土浦まちかど蔵・大徳」は営業しているけど,何も買うつもりはないので離れた所から写真を撮るだけでスルーしました🎏風鈴

 

『映画「水深ゼ0メートルから」“特別先行上映舞台挨拶”』篇(20240418-20)