③「増田地区の歴史について」篇 | 杜のイーグルスのブログ

③「増田地区の歴史について」篇

小学校を早々に後にしたら 国道342号線 に出てから「四ツ谷角」の交差点を左に曲がるつもり。とルートを考えていたら,道路向かいに見慣れた施設の目印が気になってしまったキョロキョロ

 

 

道を移動中に眼に入った史跡によく立てられている白い標柱ふたつひらめき電球

 

     史跡 渾蔵庵跡と経塔

渾蔵庵は「曇華山渾蔵庵」ともいわれ、享保元年(一七一六)に増田に帰った黙山和尚が創建した。寺は黙山

の命名で、東昌寺(茨城県)住職の居間の名からとられた。この寺の創建準備は、のちに黙山の在家弟子と

なった石田久左衛門・安倍五郎兵衛らが浄財を出し合ってすすめた。創建3年後の初の受戒会は、参加し

 

     史跡 黙山和尚の墓所

「坐禅黙山」といわれ、世にたたえられた高僧。天和三年(一六八三)に増田関ノ口に生まれ、14歳のとき満福

寺で出家した。23歳で江戸に入り、翌年下総(茨城県)の名僧、東昌寺の隠之道顕禅師の薫陶を受け、極限に達

する厳しい修行ぶりは「黙山粥」として後の世までたたえられている。享保元年(一七七六)増田に帰省し

 

いまさらながら珍しいが,一面だけじゃなかったんだ爆弾 して、4つ目はこの角から直ぐの所にあるはず。

 

 

 Ⓒ増田の町並み案内所 ほたる

 

ここでラストのスタンプを捺したらミッション終了拍手

 

⑱旧 杏 華 堂( 案 内 所 ほたる)国登録有形文化財

> 旧杏華堂石田医院は増田に残る内蔵の中では出入口が

> 前後ではなく設置された唯一の意匠デザインである。

> 主屋は改築し市所有。増田町観光協会事務所と休憩所、

> 公衆用トイレが併設された売店と増田の町並み案内所。

 

 

地元の産品も置いてあるのでちょっと覗いて見てから別棟の建造物にも寄って行こうおいで

 

   きゅう   きょうかどう   いしだいいん   ざしきぐら

 旧杏華堂石田医院座敷蔵

  (座敷蔵 大正15年建築 桁行9.10m、梁間5.46m)

 

石田家は享保年間に石田久左衛門の息子が医師となり開業し

たのが始まりとされ、昭和末まで9代続いた名門の医家である。

昭和末には医院を廃業、診療棟や主屋は解体され、現在では座

敷蔵だけが残されている。

 

内転びのある二階建て切妻造りと比較的小ぶりな土蔵ではある

が、開口部を主屋と繋がっていた北側妻部と、庭に面した東側平

部の二箇所に設けた、従来の土蔵の形態とは一味違う平面配置

となっている。

 

土扉には鞘飾りには現在存在しないものの、鳥居枠や土扉の蛇腹

や化粧彫の角に面取りが施され、細いシャープな白漆喰の線を

持って黒漆喰の土蔵正面を引き締めており、入口正面の踏石に

は従来から天然石では無く、洗い出し人研ぎ仕上げの疑石が用

いられている。

 

構造は一・二階とも4寸5分の栗の柱を三尺間隔に配する一般的

なものであるが、小屋組みにキングポストトラスを用いているところ

がこの土蔵の大きな特徴となっている。

 

両妻部は従来通りの鳥居型の和小屋組みとしているのに対し、

中間の小屋組は洋小屋組を用い、太い陸梁と合掌を組ませ、真

束から方杖を伸ばし棟木と合掌を受ける方杖や、四隅に火打梁を

配するなど、当時の最先端と言える構造技法を取り入れた堅牢

な小屋組みとなっている。

 

 

戸を開けると目の前に、

 

  立入禁止 

 

ってどうなのガーン

 

 

まあっそれでもこれで空いていた吹き出しの全部にスタンプを捺したから,美術館に戻って【景品】と交換してもらおう音譜

 

 

最初から決めていた『六三四の剣』の“六三四”と“嵐子”カブト

 

 

さあっ急いで,来た時に降りたバス停の斜め向かいで,平日のみ運行される14時43分の路線バスが来るのを待つだけ⌚

 

 

名物の「横手焼そば」も映画祭の時に食べているし,もう帰るだけでいいよね🍳

 

『「秋田県横手市増田へのまんが道」へはどう行くの』篇(20240325)