“舟木家”の「武士の家〈系〉簿」の改訂版について【続き】 | 杜のイーグルスのブログ

“舟木家”の「武士の家〈系〉簿」の改訂版について【続き】

続けて「本編」の2つ目は[舟木家・五代]『舟木光顕』から[舟木家・六代]『舟木忠之』までですね!

 

一応今回も参考にした『包丁侍 船木家の歴史』の第一部を元にして考察しているけど,第二部以降を概観するに料理関係の記述がほとんどのようなのでねひらめき電球

でも同書籍の記載内容を十分に検討していない部分もあり,今後も推敲・加除修正することを踏まえて改訂していくこととするため前二回同じように現時点ではVer.○とします注意 一気に書き上げるよりも何度も検討を加え,時間を置いて自分の考えをまとめつつ文章や体裁を整えることが大事だと思っているからね拍手

 

なお『包丁侍 船木家の歴史』に記載されている文章並びに典拠は赤文字で,原本とした2つの系図・系譜に既に掲載され,同様の記載である場合には緑文字で表示した。

また,系図の構成上,事項ごとに文頭に付した「」や西暦など俺が追記した部分については青文字としました。多少,記載方法については系図・系譜の記載方法に変えているのも元の如し。

ただし、論文や専門書では典拠となった資料の引用部分はページ数まで明示するのであるが,煩雑になるので今回は省略します。

 

このブログに記載した内容・文章と書籍とに相違がある場合は,『包丁侍 船木家の歴史』の記載通りです!!

 

 

> [舟木家・五代目]

>  舟木伝内光顕みつあき(生年不詳-1846没)----------------------------------------

>   || 寛政十一年(一七九九)九月、安通は、妻との間に子ができなかったためか、津田兵庫与力舟木平六

>   ||   (文化十五年(一八一八)二月病死)の三男を養子にむかえている。名字からして親戚筋にあたるものと考

>   ||   えられる。

>   ||   光顕みつあきといった。

>   || この光顕「伝内」を名乗った。

>   || 1800年(寛政12年)に安通の養子となる。

>   || 文化元年(一八〇四)十二月、光顕が後を継ぎ、御料理人として召し出されることになる。

>   || また『調飪禁忌弁略』奥書に

>   ||      右者当家雖為秘書依御所望進之候不可有他見者也

>   ||        文化元年(1804)十一月舟木伝内光顕(印)

>   ||          石黒孫九郎殿

>   ||   とある。『調飪禁忌弁略』は包早が編んだものである。光顕の代には、それが秘書として相伝されるものに

>   ||   なったことを示している。

>   || 藩主・前田治脩,前田斉広の「御膳方定加人」をつとめ,

>   || 文化四年(一八〇七)正月には、後に十三代藩主となる前田斉泰の正室偕姫(景徳院)の御膳所につとめ

>   ||   ている。

>   || 文化四年(一八〇七)正月に十一代藩主前田治脩(一八一〇年没)の「御膳方定加入」をつとめるなどして

>   ||   いる。

>   || 文化十年(一八一三)には、後に十三代藩主となる前田斉泰の正室偕姫(景徳院)の御膳所につとめてい

>   ||   る。

>   || 偕姫の御膳所で、一生懸命につとめ、文化十一年(1814)には「御膳方棟取役」、

>   || 文化十四年(一八一七)四月十二日には、四条流総本家高橋宗芳の門人となっている。

>   || 1829年(文政12年)に「御料理頭並」となる。

>   || 文政五年(1830)正月、偕姫の妊娠につき、御規式方御用を仰せ付かり、二十石加増、計百石となる。

>   || 「天保」期(1830~1833年)に「御料理頭並」と『諸頭系譜』(「金沢市立玉川図書館近世資料館」蔵)

>   ||   にあげられている。

>   || 弘化元年(一八四四)十二月、養子忠之に後を継がせ、

>   || 弘化三年(1846)二月に病没している。

>   || 「御膳方棟取」を務める。

>  (組外)中山遊山の娘(杉村太大夫姉)、安政五年(一八五八)十一月に病死、享年は不明である。


> [舟木家・六代目]

>  舟木伝内忠之(1817生-没年不詳)

>   || 1844年(天保15年弘化元年),光顕の跡目となり「御台所御用」をつとめる。

>   || 弘化元年(一八四四)十二月、養子忠之に後を継がせ)家を継いだ忠之は、はじめ御台所御用をつとめ、

>   || のちに御膳所関連の役につくが、

>   || 慶応元年(一八六五)五月に本組与力となり、明治維新を迎える。

   || 「御丸御広式御膳所加人」,

   || 「御守殿御膳所定役」,

   || 1857年(安政4年)に「知事様御婚礼御式正方御用主附」,

   || 同年「御守殿御膳所再役」に,そして「金谷御広御膳所定役」をもって,料理人としての舟木家は終わる。

>   || 『先祖由緒并一類附帳』(「金沢市立玉川図書館近世資料館」蔵)掲載。

>  (組外杉村助大夫の娘

 

この系図は,「明和3年(1766年)、藩に提出した舟木家の由緒書によると、歴代は図2のようになり、女性については、名は記されていません。」とある。これも記載方法については系図・系譜の記載方法に変えている。

 

あらためて映画のシーンを注視してみれば,劇中の小道具の書類の中に「舟木伝内包早」と書かれているのが分かる虫めがね

 

これ以降のことも検索中のなかで資料らしいデータに遭遇したけど見失ってしまったドンッ

元より本編の「武士の家〈系〉簿」シリーズ作成にしても現在までそれぞれの子孫の方が生活しているのであるし,それらの人たちの日常に悪影響を与える危惧を感じてしまうようになってしまったびっくり汗

 

そのため金沢市内で根本史料を調査・確認しようと考えていたのも躊躇するようになり,ブログの作成も滞ったまま。。。

 

こちらはいつか続きを書くことがあるのだろうか🧮