③「増田地区の歴史について」篇
3番目のチェックポイントはどこだっけ
Ⓓ増田観光物産センター 蔵の駅
タブレットに表示させた地図だけじゃなく紙媒体でも確かめながら探して行こう
ついでにちょべっと歴史探訪もして
>①旧 佐 藤 與 五 兵 衛 家(まちの駅福蔵)
> 佐藤與五兵衛家は米の取引商で増田銀行創立時監査役
> の一人。大正時代に増田勧業社を設立、セメントなど
> 建設資材を扱う商いもしていた。現在は所有が変わり
> 食品製造の佐忠商店がまちの駅福蔵を営業している。
おっと、此処じゃなかった 外観が似ていて,カラーが同じようなトーンなので見比べるのが難しいじゃないか。。。
地図を見ながらもう少し歩いて,やっとあれかな
入口の戸を開けて直ぐにところにスタンプ台は置かれてあった。目的は達成されたが,これだけのためにというのも申し訳ないし,スタッフに建物内の見学の可否を確かめてひと通り見せていただくことにしましょう
>⑤旧 石 平 金 物 店( 案 内 所 蔵の駅)
> 明治大正時代金物店などを営んだ石田家より横手市に
> 寄贈された。増田町の標準的な町屋構造を見ることが
> できる建物として無料開放している。
> 藏の駅店内は案内所及び物産販売も行っている。
い し へ い
旧 石 平 金 物 店
この家屋は、間口が狭く、奥行きが極端に
長い増田の町割りの姿が残っており、増田の
町屋の特徴を知る格好の家屋となっています。
道路に面した正面に店舗を配し、座敷、居
間、水屋と繋がる部屋割りは、増田の商家の
基本的な配置で、家屋の南側に店舗より裏口
まで延びるトオリが設けられています。
トオリは細長い敷地を積雪の多い冬場でも
行き交うことが出来るように設けられた、積
雪地帯の生活の知恵です。
また、他家と同様に覆い屋に包まれた土蔵が
主屋の水屋に繋がり、主屋と土蔵(内蔵)が
一体となった地域特有の造りとなっています。
この施設の
奥行きは50間
メートルに換算すると
約90メートル!!
こんなにずけずけと他人の生活部分にまで入っていいのかと心配しつつも,室内に設えられた井戸や手洗いとかの水回りに感動したりして。かつて俺が住んでいた家も土間にあった炊事場や室内の渡り廊下で繋がれた風呂場を思い出す。
また来る時は時間を取ってみることにしようか
さてラストのスタンプポイントはどこかいな
下夕堰( 下関)
下夕堰はここから東へ2・4km離れた真人
山南麓の成瀬川より取水し、町の中心部を東西に
流れ、西の十文字方面に向かう用水堰である。
この堰は、流域住民の生活用排水や防火用水、
農業用水としても活用され、増田の人びとに恵み
を与え絶え間なく流れている。
本堰の由来などは分からないが、その歴史は
古く、江戸時代には「本田堰」とも呼ばれた堰
(佐竹氏が秋田に入部する以前に開発された農
業用水路)であり、おそらく戦国時代から増田
を流れる用水堰であった。
古地図で流路をたどると、ここより下流の
増田城(土肥城)址付近を流れているように
描かれており、城のお堀の水として活用されて
いたと推定される。当時は軍事的にも貴重な堰
であったと思われる。
下夕堰は政治や経済の上でも増田の歴史とは
切っても切り離せない用水堰であり、増田の
栄枯盛衰を見続けた用水路ともいえるのである。
令和四年九月 横 手 市
国指定重要文化財
旧松浦千代松家
元祖
増田エレキマンの家!
らしい。
(水から電気をつくった男)
旧松浦千代松家
残念ながら今日はお休みらしいし,時間が2時を過ぎている 一度,美術館に引き返さなければならないことを考えればギリギリだしね。
そのかわりどうしても気になっている場所に曲がってみたい 増田蔵町通り(中七日町) から脇道に入って くりきり峠(旧八木街道) を小学校を目指すことにしよう
歴史と懐かしさを抱えた校門の門柱と表札。
史 跡 増 田 城 跡
増田城(土肥城、土肥館)は貞治年間(一三六一~六七)に小笠原義冬が
当地に築城したと言われ、その時義冬が城の堅固を祈って愛娘を生贄にした
という悲話(二本杉伝説 )が残されています。その後小笠原氏は小野寺氏
に敗れ楢岡(南外村)に移りますが、代わって城に入ったのが小野寺家家臣
の土肥氏です。土肥氏は関ヶ原の戦い(一六〇〇)まで城主として居城し
合戦の一六〇二(慶長七)年には佐竹氏の秋田国替えにともなって、佐竹
義賢(佐竹東家)が一時城代となりました。
城の主郭は東西二百・南北三百メートルの方形で、水濠をめぐらせた平城
でした。南側の堀は幅十メートル、他の三方は六メートルで、二本杉付近に
当時の土塁の面影を残しています。また主郭は周囲よりも一段高く、外堀や
隅櫓もうかがわれ、防御施設を整えた城であったようです。
増田城の壊された年代は不明ですが、豊臣秀吉の廃城命令でも破却をまぬ
がれ、江戸幕府の「一国一城令」などによって廃城となるまでしばらく存続し
た城とみられています。戦国時代から江戸時代初期まで平鹿・雄勝地区で重
要な役割をはたし続けた城といえます。
平成十四年三月 増 田 町 教 育 委 員 会
かつての城跡などは「学校」あるいは「神社」として残されていることが多い。それが今まで保存される要因の一つになっているが,今日が春休みなのが有難い。
近頃は学校周辺で写真を撮っていると不審者に間違われてしまうリスクもあるので,特に注意しないとね それでも何とか出会えました
『「秋田県横手市増田へのまんが道」へはどう行くの』篇(20240325)