③「今日こそ『偕楽園』の花見」篇 | 杜のイーグルスのブログ

③「今日こそ『偕楽園』の花見」篇

 

とにかく先客は多いし,残り時間も気になっているので気持ちは急いてしまうランニング

 

 

まあっ景色や歴史に浸ることは諦めて,写真に記録するのを優先しようカメラキラキラ

 

      好 文 亭 (こうぶんてい)

 

創 建 天保十三年(一八四二)七月

     水戸藩第九代藩主 徳川斉昭(烈公)

 

  好文亭は、昭和二十年(一九四五)八月二日未

 明の空襲で全焼しましたが、昭和三十年から三年

 をかけて復元されました。

 

  その後、落雷により奥御殿が焼失しましたが

 復元されて現在に至っています。

 

 好文亭 三八一・七〇㎡(一一五・四七坪)

 奥御殿 三三八・三四㎡(一〇二・三五坪)

 橋廊下   一八・八七㎡(    五・七一坪)

 

 菊の間

 

なるべく人の姿が入らないようにタイミングを計ってシャッターを切っていくOK

 

 桃の間

 

どこにも建物の「平面図」が見当たらないし,パンフレットにも記載がないので順路に添って歩いて行くだけでどこがどこやら。。。

 

 つつじの間

 

         桃の間     

         田中青坪筆  

 

 桃の間は総板敷きで厨(くりや:食事の準備の場所)とし

て使用された部屋です。

 桃の樹を配した襖十四面が三方を囲んだ空間をつくって

います。地面は描かれていませんが、樹の根元を描写

することで画面に奥行きを暗示させています。桃のほかに

青々とした松葉が画面を分断するように描きこまれ、青坪

の画面構成に対する大胆さがよくあらわれています。

 

 

ところどころ庭や外との接点があるので,俺自身の息抜きにも利用するか。

 

 

    松の間                   紅葉の間

 この部屋は藩主夫人が    藩主夫人が城中から

 お城から好文亭に        好文亭においでになった

 おいでの折休憩さ         時、お付きの御殿女中

 れたところです。            のおもだった者が控え

                         ていた部屋です。

   襖絵 須田洪中画伯筆          襖絵 須田洪中画伯筆

 

 竹の間

 

座敷内には足を踏み入れられないので,ひたすら廊下を歩くだけあし

 

    梅の間

 明治二年から同六年まで

 藩主夫人の居室となり、

 明治三十五年 大正天皇が皇

 太子の時ここにお泊りに

 なられました。

 また 大正元年 昭和天皇が

 殿下と御一緒に御来亭

 の折御休息なされ大正十五

 年には、三笠宮殿下が御休憩

 なされた部屋です。

   襖絵 須田洪中画伯筆

 

 清の間

 

ほとんどの部屋の名前は襖に描かれた樹木によるのだろう🌸

 

 

         梅 の 間 入 側

   梅の間と清の間をつなぐ部屋で、清の間とともに梅の間の付

 属室として使用されたと考えられます。戦後の好文亭再建に

 あたり、襖には田中青坪により南天が描かれました。

 

 桜の間

 

    萩の間             順 路

 藩主夫人がお城から

 文亭においでになった時、お

 付きの御殿女中が休息し

 □□□□部屋です。

 □□□□の桜の間も同

 □□□□□。

   襖絵 須田洪中画伯筆

 

 

    太鼓橋廊下

 □□□□の橋廊下は

 奥御殿と好文亭を結

 んでいます。

 廊下の左側に烈公が創

 案した篠で作った格

 □□□□□す。この窓

 □□□□□であること

 が判のない□に工夫して

 作られています。

 

来客のため多言語でごく簡単に解説が付けられているが,てかって読めないのはスルーしてしまったキョロキョロ汗

 

「鉄ヲタの『下り』のみの臨時駅で梅の花見旅」篇(20240310)から