③「今日こそ『偕楽園』の花見」篇
➊表門から入って 料金所 を通れば,竹林と梅林のどちらへ行こうか
ピークは過ぎたのであろうがまだ梅まつりが開催されているので人がいっぱいだろうと想像されるエリアを避けて,「目的地」もある南側を選びました
⇐好文亭 表門⇒
220m 90m
⇐吐玉泉
160m
単に「目的地」までの距離で判断できない高低差がある。できれば平行移動で済ませたいのに,選んだ史跡に行くには山道を降りねばならないのでひた
なんか発泡スチロールで作られたような色合いのもの。とても石製とは思えないが
吐玉泉 (とぎょくせん)
このあたりは昔から湧水が多かったところで、徳川
斉昭は偕楽園造成に当たり地形の高低差を利用して
集水し、造園上の景観を考慮した白色の井筒を据えた
湧水泉を設置しました。
この水は眼病に効くといわれ、好文亭の茶室阿陋庵
(かろうあん)の茶の湯にも供されました。
泉石は常陸太田市真弓山の大理石で、寒水石ともいい
ます。現在の泉石は四代目で、昭和六十二年(一九八七年)
十二月に更新したものです。
湧出量は、一日約100㌧です。
❸吐玉泉の傍には太郎杉が聳えていた。
太 郎 杉(たろうすぎ)
推定樹齢 八〇〇年
かつて太郎杉の周囲には杉の巨木があり大きい
順に名前が付けられていました。
五郎杉まであったようですが、現在あるのは
太郎杉だけです。
さっき通った道を降っていく観光客とすれ違いつつ,息せき切って登っていく
「中門」を通り過ぎれば,突然 多くの人が目に広がっていく。青空をバックに花開くのは「烈公梅」なのか
好 文 亭 (こうぶんてい)
好文亭は、水戸藩第九代藩主徳川斉昭(烈公)が詩歌・管弦の催しなどをして家中の
人々とともに心身の休養をはかるために天保十三年(一八四二)に建てたものです。
好文というのは梅の異名で、「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開か
なかった」という中国の故事にもとづいて名付けられました。
建物は木造二層三階建ての好文亭本体と北につながる奥御殿(平屋造り)からなり、
全体を総称して好文亭と呼んでいます。斉昭はその位置から建築意匠まで自ら定めたと
いわれています。
奥御殿を設けた理由は、万一城中に出火などあった場合の立ち退き場所として備えら
れたためと、当時藩内では管弦など禁制であったので城中の婦人達のため遊息の場所と
したという配慮があったようです。
昭和二十年(一九四五年)八月二日未明の空襲で全焼しましたが、昭和三十年(一九
五五年)から三年をかけて復元されました。昭和四十四年(一九六九年)九月落雷によ
り奥御殿と橋廊下は焼失しましたが、昭和四十七年(一九七二年)二月に復元されまし
た。
平成二十三年(二〇一一年)三月十一日の東日本大震災では壁の崩落など大きな被
害を受け閉館を余儀なくされましたが、平成二十四年(二〇一二年)二月
に復旧しました。
「偕楽園」への「入園料」のほかに「入場券」を買い求める人の列が20人くらいは並んでいた
まだ午後2時にはなっていないが,時間が気になるがここで見学しないという選択はないだろう
❹好文亭
斉昭自らが設計したもので、各所に創意工夫
と洒脱さを感じさせます。斉昭は、ここに文
人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や慰
安会を催しました。
「鉄ヲタの『下り』のみの臨時駅で梅の花見旅」篇(20240310)から