②「“ゆうゆうあぶくまライン”を「おのにいまち」駅へ」篇
さて乗り遅れなければ計画より早く帰りたいので,気持ち急いで見学を続けましょう
現在の位置情報と表示された地名の読みを確認します。んでっ、何でここに
鎮守 塩竃神社
さあっ郵便局が見えたら「船引大越小野線」に出て左だね
今はご飯が食べたいが,他にも麺類で有名なお店があるというので帰りに寄ろうかとしたら 開店時間前なのにもう列ができている
まあっそれに並んでいる気もないし,まだまだお昼には早いから「目的地」へ行くつもりも街中を抜けるのに道順が分かるかと心配
んでも、小さいながら次々と現れる案内表示 ⇨ ⇨ ⇦
小野城址
⇦
藪道を下草を避けながら登って行けば
城跡があることは調べていたけど,解説板があるのは知らなかった
小 野 城 由 来
右支夏井川と専光寺、町民体育館に挟まれたこの地に、天正年間(一五七〇年代)
戦国時代の南奥列強の中で、その存在を大いに誇示した「小野城」があった。
田村一族が郡山市田村町から三春町へ拠点を移したのは永正元年(一五〇四年)
盛顕の子、義顕の時代といわれる。その頃、いわき地方を支配していた岩城常隆も
勢力を伸ばし小野左右衛門の築いた小野城を攻めて支配下に置いたとされる。
常隆は田村との友好の為に娘を義顕と結婚させ、娘婿の義顕に小野の保を譲った。
そして巍顕二子の顕基=顕定(梅雪齋)を常隆の攻略した小野城の小野左右衛門の
嗣子として小野に入城させたという。その後、戦国時代の混乱の中で梅雪齋とその
子、右馬頭らは南の要害である小野城を守り、この地域を治めた。
現在の小野町の町並みや寺社仏閣は、田村梅雪齋、右馬頭父子、またはその家臣団
や末裔によって築かれ、その恩恵は多大なものがある。
田村家は義顕から隆顕、清顕と代を重ねていったが、天正十四年(一五八六年)に
清顕が死去すると嫡子のいない田村一族は後継をめぐって分裂し、天正十七年
(一五八九年)その混乱に乗じた岩城勢の進攻によって小野城は落城したといわれる。
その後、奥州仕置きによる田村家廃絶によって小野城は廃城となり田村家は離散
するが、落城の三年後の文禄元年(一五九二年)正月五日に田村右馬頭、翌六日には
田村梅雪齋がされざれ自刃したといわれる。梅雪齋らは普賢寺に埋葬され後年、
遺徳を偲んだ家臣団らによって専光寺にもお墓が建立された。
小野城復古会
開けていて見晴らしも良い。市街地もばっちり見える。しかし、それ以上はないようだしや
にも会いたくないので,さっさと降りました。
営業が始まっても次々と店内に客が入っていくみたい。即、諦めて戻ろうかと思ったら
近くのスーパーの買い物で我慢するか そして駅へと歩き出したら,街のサイトに掲載されていた観光マップで見ていたが突然に
丘灯至夫生誕の地
>➐西田屋本店
>作詞家
>丘灯至夫
>生誕の碑が
>あります。
そしてラスト4つ目の「目的地」に帰ります。
東北ローカル線の旅㉜「未知のくローカル線の旅路」篇(20240320)