②「宇都宮LRTで城跡探訪」篇
国指定史跡
飛 山 城 跡
昭和五十二年三月八日指定
飛山城は、鎌倉時代末期の永仁年間(十三世紀末)に芳賀高俊が主家
の宇都宮城に近い当地に築城したと伝えられている。
芳賀氏は、天武天皇の子孫である清原氏の一族で、代々、芳賀郡一帯
を治めていた豪族であったが、この飛山を居城としてからは姓を先祖の
「清原」に改めたといわれている。(宇都宮市編入以前の旧清原村という
村名は、この清原氏にちなんだものである。)
この飛山城は、高俊以後、慶長二年(一五九七)豊臣秀吉の命により
廃城となるまでの三百年にわたり清原氏の居城であったといわれるが、
その変遷については定かではない。
飛山城は、近世の天守閣・石垣等に代表される城と異なり、自然の地
形を利用し、深い空堀と土塁を
二重にめぐらし、外敵の侵入に
備えた中世の平山城の様式を伝
えている。
なお、城の周囲にめぐらされ
た内堀には、通路と思われる「土
橋」があり、外堀に面した土塁
には、数か所突出部がみられ「物
見櫓」と考えられている。
この飛山城は、廃城以後約四
百年を経た今日まで往時の遺構
をとどめているものとして全国
的にも非常に高く評価されてい
る。
宇都宮市教育委員会
(昭和六十年三月・建)
「4号堀」を越えて先は,区切られた別のエリアのように感じた。これから「曲輪Ⅳ」に向かうことになるんだな。
現在地●と方向を自分が立っている位置と重ね合わせてから,見学順序をもう一度
この場所と鬼怒川の比高は、約25m(ビル8階
建てに相当)です。
ここから、西方に、宇都宮を代表する宇都宮城跡、
多気城跡を見ることができます。 宇都宮城は
宇都宮氏の居城として使用され、多気城は戦国時代の
終わりころに、その本拠を移したとされる城です。
なお、鬼怒川の対岸には、古代の東山道がとおって
いました。
飛山から見える富士山
飛山から見える富士山が、2005年11月、周辺の景観の
保全や活用を通じて、美しい地域づくりの推進を目的と
した、「関東富士見百景」に選定されました。
空気の澄んだ秋から冬場の晴れた日には、この場所から
鬼怒川の清流を眼下に、富士山を鑑賞することができます。
なぜか、立ちふさがるようにフェンスが造られている。
この堀跡もかなりの規模だ。
4号堀
この堀は、城を北と南に分け、北側 (堀の規模)
部分の曲輪Ⅰ~Ⅳを防御する規模の 上 幅 約7~12m 下 幅 約2m
大きなものです。西側の崖ぎわには 深 さ 約4~5m 形 状 箱 堀※1
土橋が設けられています。この部分を
防御するかのように、堀の内側の土塁が
弓なりになっており、ここから矢が
射かけられるよう工夫されています。
写真は、土橋部分を北側から撮った
写真ですが、右側が土橋部分、左側が
畝状の掘り残し部分で、その間が落とし
穴のようになっています。ただし、なぜ
このような穴を設けたかは不明です。
※1 断面が逆台形の堀。
ちょっと道に迷いかけているのか・・・
古代竪穴建物
この建物は、地面に大きく竪穴を
掘り、壁ぎわの柱により屋根を支える
「壁立式竪穴建物」と呼ばれるタイプの
ものです。壁は土壁で、屋根は茅葺です。
屋内にはカマドや棚が設置されています。
調査により、この遺構から「烽家」と
書かれた墨書土器が出土し、烽子
(のろしの番人)の詰所と考えられます。
建設時期も他の復元建物との時代的な前後関係も分からないまま。
この城跡で一番見たかったのはこの建造物 これまでも半地下式の建物はあったけど,それは土や草を載せたものであり,このような板葺きの建造物が屋根だけ見せているのは見たことがなかった
中世竪穴建物
この2棟の建物は、地面を約1.5m
掘り下げて床にし、屋根を直接地面に
葺きおろしています。屋根は、掘立柱
建物と同じ「石置板葺」です。
調査により、この屋根に使用された
と思われる川原石や常滑の大甕片・
青磁片などが出土しています。この
建物の性格は、貯蔵用とする説や
兵士の詰所とする説があります。
風雪にも強く,外気温の影響を受けにくい掘り下げた土に囲まれた造りは生活するには良かったのだろう。
内部の見学はできないので,10年前に見学した時に撮影した写真で思い浮かべておくか
公園利用のみなさんへ
・公園はみなさんで楽しく利用いただく施設です。
・マナーを守り、他人の迷惑にならないよう、ペットなどは
放さないで運動をさせてください。
園内は火気厳禁です。
「『第4回SAITAMAなんとか映画祭』でも。」篇(20240302-03)から