②「大内宿への鉄道&バス旅」篇 | 杜のイーグルスのブログ

②「大内宿への鉄道&バス旅」篇

 

受付を済ませたので,内部の見学をしましょう。って、入口は左側の板戸を開けるのですか!?

 

 

薄暗い室内はどこの茅葺き屋根を持つ建物ではそうであるように,囲炉裏でいぶし用の煙が上がっていたメラメラ

 

してっ左には本来は「庭」であったスペースに,屋内屋の建物が造られているのですかいびっくり笑い

 

 

  大内宿と町並み展示館の概要 

 

   大内宿は17世紀に成立した下野街道の主要宿駅です。

 下野街道は福島県の若松と栃木県の今市を結ぶ三十二里

 の街道で、江戸時代には会津藩の参勤交代の行列が通り、

 大内宿も人馬の往来や物資の輸送で栄えました。

   明治以降、大内宿は宿駅としての機能を失いましたが、

 江戸時代の面影を残す町並みは現代に引き継がれました。

   この町並み展示館は、会津藩主が参勤交代の際に滞在

 した本陣を、昭和59年に再現したものです。

 

  重要伝統的建造物群保存地区 

 

   地域文化が創り上げた集落や街並みなど貴重な文化的

 景観は、保存・活用を図りつつ後世に伝えていかなければ

 なりません。大内宿は昭和56年(1981)に選定され、建物

 の保存・修理や、防災設備の整備などが行われてきました。

                           歴史的町並みの保存整備事業 

                        【調  査】

                         建造物群及び環境等の特性

                         や保存状況の調査、学術的

                         な評価、保存対策の検討

                        【保存修理・修景・復旧】

                         計画的な修理、町並と調和

                         した修景の実施、石垣と生

                         垣などの復旧

                        【防災施設等】

                         防災設備の充実、説明版・

                         標識等の設置

                        【公有化・活用】

                         維持が困難な代表的建物の

                         公有化と公開活用

 

 

 

 記録映像の紹介(かやふき技術の記録)  

 

   美濃屋分家阿部邸のトタン屋根を茅葺き屋根に改修し

 た時の映像記録で、文化庁ふるさと文化再興事業の補助

 を得て制作されたものです。記録時間は約50分で、5分

 に編集したものもあります。改修工事は平成14年3月に

 2週間かけて実施されました。大内宿の町並み景観に配

 慮し、トタン板で覆われていた茅葺き屋根を解体し、新

 たに茅で丸ごと葺き替えたものです。

 

建物内に井戸も切られていたんですねみずがめ座

 

 

                  大内宿の成り立ちと歴史[1]    

 

   大内宿のある下郷町(南会津郡)は鎌倉時代「陸奥国長江庄」     当時、大内宿を始めとする街道の宿駅では荷物を運ぶ人馬

 と呼ばれ、豪族長沼氏が統治していました。その支配は戦国       の交換(継ぎ立て)が行われ、大内宿はこの継ぎ立てや宿場経

 期まで続き、江戸時代初期に大内峠から北は会津藩領、南は      営で栄えました。しかし天和3年(1683)の日光地震で五十里

 幕府の直轄地(南山御蔵入領)となりました。                             湖が生まれ、下野街道は通行できなくなりました。また幕末

   会津城下と日光街道の今市宿を結ぶ下野街道(南山通り、会    の戊辰戦争では、大内宿も大きな影響を受けました。

 津西街道、平成14年史跡指定)は、会津藩が江戸への最短経路と    明治17年(1884)に新日光街道(現国道118・121号)が整備

 して17世紀初めに整備した街道で、江戸までは5泊6日の行程      されると、大内宿は宿駅としての機能を失い、養蚕や麻栽培

 でした。大内宿は会津城下から南に約6里のところにあります。     を行う山間の農村集落になりました。

 

往時の生活用具などの民具も片隅に置かれているが,俺にとっては見慣れたものか。

 

                  大内宿の成り立ちと歴史[2]    

 

   大内宿が地域の幹線交通体系から外れたことは、図らずも    茅屋根をトタンで覆うなどの家屋が増え始めました。

 明治期以降の近代化の波から、町の景観を守ることになりま       その一方で、大内宿の町並みがテレビや新聞で紹介される

 した。山間農村集落としての暮らしは昭和期まで続きました      と景観保存の声が高まり、重要伝統的建造物群保存地区選定

 が。昭和52年(1977)の大内ダム建設で経済的活況が生まれ、    を経て、現在も景観保全の様々な取り組みが行われています。

 

 

内部も見学できる部分には足を踏み入れてひと回りしていきましょうあし

 

 

🛁や🚽も今更ながらか。当時としては建物内に設えられているのは珍しく,多くは少し離れた場所に別棟で建てられていただろうが。

 

 

中二階にも顔を出してひととおり見学したが,短時間だったな⌚ それでは雪解けの水溜りを避けながら,また街道に戻るとしようランニング

 

「会津鉄道に乗って『大内宿』歴史旅」篇(20240314)より