②「千波湖エリアをレンタサイクルで走る」篇 | 杜のイーグルスのブログ

②「千波湖エリアをレンタサイクルで走る」篇

「水戸」駅周辺には3か所のレンタサイクル取り扱い施設がある。それぞれ別な場所への乗り換えできたり

,線路を挟んで走りやすいルートがあったりなかったり。して、俺が選んだのは自転車

 

 

できるだけ多くの「目的地」を効率的に見て廻るには徒歩や公共機関だけでは難しいだろう。そんな時に頼りになるのはレンタサイクルかな。もらった地図を見ながら乗ることにしよう。

 

 

リストアップしている「目的地」の半分は坂道が多いというので,料金は高いが電動サイクルで楽に行こうぜぃバイバイ

まずはスタッフに教えられた通り,幹線道路から「桜川」沿いのサイクリングロードを一路「千波湖」へとペダルをこぎ出しますかたつむり

 

 

「千波湖」との間を遮るように観光客たちが歩く路が別になっているので,自転車に乗っていても安心して走れるよなあ。

 

 

だだ、季節柄もあり,周りに高い建物もないのでスピードをあげれば冷たい風が身に染みるガーン いくらその為に防寒着仕様にして来ていても叫びあせる

 

 

まあっそんな中でもちょっと気持ちも留めて,体も休めていこうかグラサン まだ先かぁ。。。

 

 

数多くの「目的地」から手っ取り早く見学できるポイントからクリアしていこうかと,道路と水路をまとめて越えて行ける歩道橋を自転車を押してわたりましょう。

 

 

最初は「偕楽園」駅で降りて来るつもりだった3つの内のレンタサイクル施設があるエリア。

 

  ⇐徳川光圀公像   徳川斉昭公・七郎麻呂像⇒ 

                         偕楽園⇘ 

 

 

  徳川斉昭公七郎麻呂(慶喜公)像 

 

  水戸藩第九代藩主斉昭公(烈公)は、弘道館、偕楽園を建設

するなど、第二代藩主光圀公(義公)とともに義烈両公と称さ

れ、その事績は枚挙にいとまのない藩主として知られておりま

す。

  その斉昭公の七男、七郎麻呂様(慶喜公)は、水戸後にお

いて父斉昭公の薫陶を受け、後に徳川幕府第十五代将軍として、

自ら近代日本の幕を開けた近世と近代の架け橋ともなった方で

あります。

  『徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像』の建立は、二十一世

紀に向けて、家族の原点、やさしさと厳しさを併せ持つ親子の

絆を、水戸の歴史から全国に発信するものです。斉昭公四十五歳、

七郎麻呂様七歳を想定し、斉昭公が七郎麻呂様に世の正しい道

を指し示し、七郎麻呂様がそれに応え、斉昭公を仰ぎ見るとい

う、現代にも通じる親から子への愛情と厳しい指導を示す姿を

表現しています。

  近くにある「徳川光圀公像」は、日本の進むべき正しい道を

見つめている姿であり、光圀公、斉昭公そして慶喜公と先祖か

ら代々引き継ぐ志の一貫性を表現するものであります。

  今回の像の建立については、茨城県と共同で開催した大河ド

ラマ「徳川慶喜」展示館の収益を活用したものであり、この地

を訪れる多くの方々が「徳川光圀公像」と共に未知の三名君の

像に接し、多くの感動、感激を得られますことを念願するもの

であります。

    平成十一年十一月一日

 

       大河ドラマ「徳川慶喜」記念事業実行委員会

             会    長   水 戸 市 長 岡田   広

 

                 題字揮毫  茨城県知事 橋本   昌

                銅像制作  日展評議員 能島 征二

 

徳川斉昭は長男以外は“二郎麻呂”から順次名前を付けて行ったという。

 

 

立札はかなり風雨にさらされて朽ち果てようとしている。

 

   徳川光圀公の詩     

 千波湖上落霞飛ぶ 柳は長堤を挟みんで夕暉に映ず

 遥かに紅雲を覓めて 望眼を揩れば 香風満腹一帆帰る

     水戸黄門として親しまれている第二代水戸藩主徳川光圀公(義公)

     (一六二八~一七〇〇)七十歳の時の作。千波湖上は夕焼け空で、

     長堤の柳が夕日に映えている。目をこらして遠く茜雲を眺めると、

     春風をいっぱいに受けて歩を膨らませた一艘の船が帰ってくる、と

     詠んでいる。光圀公は、一六六一年に第二代水戸藩主となり、文治的

     善政を行い、藩内外から名君と仰がれた。特に史局(彰考館)を開き、

     大日本史の編纂に当たったことは、近世日本の文化に大きな影響を

     与えた。

 

   徳川光圀公像 

 

 水戸黄門で知られる徳川光圀卿は今を遡るこ

 と三百数十年 寛永五年水戸城下柵町の家老

 三木之次の家で生まれた 父は徳川家康の第

 十一男水戸藩祖頼房 母は谷久子 五歳にし

 て世子に挙げられ 三十四歳の時御三家水戸

 第二代藩主となり その職に在ること三十年

   元禄三年兄髙松藩主頼重の子綱條に跡を譲

 り 多年の念願を果たして引退した 翌年水

 戸の北太田の西山に隠栖して凡そ十年 元禄

 十三年良き家臣に恵まれ 七十三歳の波乱の

 折の生涯を終つた 生前の行実により義公と

 謚された 殉死の禁止 社寺改革 扶弱抑強

 の令等藩政上の治績のほか 世子時代に志し

 た彰往考来の意に基づく大日本史の編纂では

   史臣を全国各地に派遣して旧記古文書を収

 集するなど史料尊重の方針を貫ぬいた また

 下野国での古墳発掘や各地の史跡古碑等の保

 存に努めたことなど 文化財保護の上から今

 日その価値が再認識されるに至った 庶民に

 対する思い遣りの民政と大胆な文化行政によ

 つて 近世大名中異色の存在であった卿は太

 平無事の世の英雄と評された 卿晩年の姿を

 模した此の像は多くの人々の浄財によって完

 成し湖畔きるかに生誕の地を望んでいる

   昭 和 五 十 九 年 三 月 吉 日 建 之

    徳川光圀公像建立実行委員会会長和田祐之介

 

                                                  銅像制作 小 森 邦 夫

                               撰  文   瀬 谷 義 彦

                               書       南沖 関 敬 義
 

リストアップナンバー,⑧「徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像」と⑦「徳川光圀公像」でした。次は少し移動して。

 

「鉄ヲタの小さな劇場で映画鑑賞の旅」篇(20241020)