②「会場までの歴史散歩」篇
もう会場も開いて入場も始まっているだろう まあっ開演のあと観たい作品まではさらに時間があるので,その前に歴史の世界も少しは見学してしまうつもり
今日の予定も全ての上映が終わった頃は暗くなっているだろうし,明日も朝には限られた時間しかないはずなので
「日光御成道(市電通り)」から次の信号で右に曲がればいいのね🚥 ほとんど初めて見る「岩槻」城は,大きく「沼」に囲まれた“水城”といっても良さそうな縄張りなんだね
城 下 町 岩 槻
鎌倉時代から室町時代頃の岩槻は、奥大道と呼ばれる鎌倉街道の一つが元荒川(当時は
荒川の本流)を渡る地点にあたっていました。幹線道と水上交通路でもある大河が交差す
る岩槻の地には、城下町の成立以前に町場が形成されていた可能性があります。
戦国時代になると、交通の要衝でもある岩槻には岩槻城が築城され、城を中心とする
都市形成が本格化しました。この頃には久保宿・富士宿・渋江宿などが文献資料に現れ
市町などの町場の形成が進んでいました。城下町岩槻の成立です。そして、戦国時代の末
天正十五年(一五八七)頃には、城下町の周囲に大構と呼ばれる土塁と堀が築かれ、岩槻
城と一体化した形で城下町が確立しました。
江戸時代を迎えると、近世の身分秩序に基づき城下町が再編され、大手門外の一帯を
中心に武家地(武家屋敷ゾーン)、街道沿いには町家(商工業ゾーン)が配置されました。
また、旧来の街道は日光御成道として整備され、城下町はその宿場ともなりました。
武家地内は諏訪小路、裏小路などの街路名で呼ばれ、生垣や板塀で区画された広壮な
武家屋敷が形成されました。大構の出入り口と、武家地・町家間の出入り口は「口」と
呼ばれ、門・木戸が設けられていました。渋江口には、寛文十一年(一六七一)、岩槻城主
阿部正春が、時の鐘を設置しました。現在の鐘は、享保五年(一七二〇)、鐘にひびが入
ったため、当時の城主永井直陳が改鋳したものです。
町家では、「うなぎの寝床」などといわれる細長い区画に区分され、さまざまな業種の
商家が通りに面して店を構えていました。町場の中心である市宿町では、戦国時代以来
の六斎市(毎月六回開かれる定期市。市宿では一と六の付く日に開かれました)も開かれ、
特産の岩槻木綿の取引などでにぎわいました。
さいたま市教育委員会
↱信号右折 岩槻城址公園
まだ時間はあるかな⌚
公共施設 を目印にして来たが,道路脇に石柱が建てられていた。
「目的地」までしっかり向かっていて,しかも間近と思えば足取りも軽くなるものか
途中にあるいろいろな表示にも確信を得て,達成感も増していく
現在地 から道路左側に固まっているリストアップしている「目的地」のいくつでも「映画祭」の前に見ておきたいのだが,まだ入場の手続きもしていないからなぁ
岩 槻 城
岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。築城者につい
ては太田道灌とする説、父の太田道真とする説、そして後
に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々です。
16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、
永禄10年( 1 5 6 7 )三舟山合戦(現千葉市富津市)で
太田氏資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配すると
ころとなりました。
北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図ってい
た豊臣秀吉と対立。やがて天正18年( 1 5 9 0 )5月20
日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日
に落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼ
すと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長
が城主となりました。
江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重
要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。
室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治
維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地
は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続い
た岩槻城は終焉の時を迎えました。
岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川
の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸
三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪
が、沼地をはさんだ南側に新曲輪がありました。主要部の
西側き堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷
や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むよう
に大構が造られました。
城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされま
すが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造
り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な
城郭でした。
現在では城跡のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪跡(現
在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。どちらの曲
輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・
空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近
年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀
が見つかっています。
岩 槻
まずは会場の位置を定めて,気持ちが急いて来てしまうのでは「映画祭」の最初に上映される作品を見逃したらこうして急いできた甲斐がなくなるので,足は道路を渡ろうとしている
『8th「岩槻映画祭」映画鑑賞旅行』篇(20240210-11)から