“舟木家”の「武士の家〈系〉簿」の改訂版について | 杜のイーグルスのブログ

“舟木家”の「武士の家〈系〉簿」の改訂版について

でわっ、ブログ内の文字数制限から「本編」を2つに分割して,ひとつ目は[舟木家・初代]とされている『舟木甚助』から[舟木家・四代]『舟木安通』までとしましょう。

 

一応今回は参考にした『包丁侍 船木家の歴史』の第一部を元にして考察しているけど,第二部以降を概観するに料理関係の記述がほとんどのようなのでねひらめき電球

でも同書籍の記載内容を十分に検討していない部分もあり,今後も推敲・加除修正することを踏まえて改訂していくこととするため【同じように現時点ではVer.1とします注意 一気に書き上げるよりも何度も検討を加え,時間を置いて自分の考えをまとめつつ文章や体裁を整えることが大事だと思っているからね拍手

 

なお『包丁侍 船木家の歴史』に記載されている文章並びに典拠は赤文字で,原本とした2つの系図・系譜に既に掲載され,同様の記載である場合には緑文字で表示した。

また,系図の構成上,事項ごとに文頭に付した「」や西暦など俺が追記した部分については青文字としました。多少,記載方法については系図・系譜の記載方法に変えているのも元の如し。

ただし、論文や専門書では典拠となった資料の引用部分はページ数まで明示するのであるが,煩雑になるので今回は省略します。

 

このブログに記載した内容・文章と書籍とに相違がある場合は,『包丁侍 船木家の歴史』の記載通りです!!

 

 

【舟木家の系図(調整)】

> [舟木家・初代]

  舟木甚助(生年不詳-宝永六年1709没)--------------------------------------------

>   || あるいは勘介四條流の「幕府台所人」に師事。加賀八家奥村家宗家第六代当主・奥村有輝家給人。

>   || 元禄15年(1702年)9月9日,「門火」を担当する。「元禄十五年九月/御婚礼一巻留帳/宮崎内丞」

>   ||   (「大友楼」蔵)。「御祝之御膳」担当。後日、『舟木甚助、御祝い之御膳御用相勤候付、従 御前白銀貳枚、

>   ||   自 御奥様白銀壱枚、御昏礼翌日被下候事。』

>  (割足軽小頭高原伊右衛門の娘享保十年十一月病死。

 

> [舟木家・二代目]

  舟木伝内包早(幸包:ゆきかね、かねはや)1685生-1759没)--------------------

>   || 舟木伝内幸包」と称する。(「舟木伝内随筆」(「大友楼」蔵))『享保十四 正月  舟木伝内包早

>   ||   (「料理無言抄」序文)、『享保十七初冬 幸包 後改包早』(「料理方故実伝略」(「加賀文庫」蔵))、

>   ||   『于時享十八癸丑林鐘 船木幸包 包早ニ改』(「調飪禁忌弁略」(「加賀文庫」蔵))とあることから、

>   ||   はじめ「幸包」といい、後に「包早」と改めたと考えるべきではないか。

>   || 奥村家「平御料理人」として仕える「十九日、平御料理人山部文右衛門、安藤甚吉、横井半丞、舟木伝内

>   ||   百疋宛被下之候。」(「元禄十五年(1702年)九月/御婚礼一巻留帳」「先祖由緒」)

>   || 宝永4年(~1707年)、「御料理人」に。「宝永四年(一七〇七)七月、包早は二十二歳にして「御料理人」と

>   ||   して召し出され、御台所御用をつとめることになる。(中略)奥村家は、前田家の重臣とはいえ家来である。

>   ||   包早は、さらにその家来だから「直臣」ではなく「陪臣」にすぎなかった。それが「直臣」になったのである。」   

>   || 「宝永五年(一七〇八)には、前田綱紀の子である利章(正智院)の「御部屋御膳方」となる。

>   || 「(利章は)宝永八年(一七一一)一月二十九日に襲封している。同年九月、包早は、利章が大聖寺に

>   ||    御入部するさいの「御供」となっているが,戻った翌月には藩主前田綱紀の「御膳方」をつとめ、それは

>   ||    綱紀が享保九年(一七二四)五月九日に没するまで続いた。」

>   || 「正徳五年(1715)十二月廿九日、御膳調勤候人々衣服被下候、其以後順之。(中略)  

>   ||          布上下一具 染物二反宛 井口数右衛門 奥山木曽右衛門

>   ||                                  舟木伝内 笹田弥三次」(「料理秘伝書」(「加賀文庫」蔵)) 

>   || 1719年(享保4年)の35歳頃から、『ちから草』を書く。

>   || 「享保四年(1719)正月元日、鯉ノ包丁長谷川宇左衛門、御真那板舟木伝内、箕輪半四郎。

>   || 〇  同五年(1720)、六年(1721)同断。(「料理秘伝書」)  

>   || (「享保六年」(1721)か)『一 三拾五俵 舟木伝内 三七』(「享保年間分限帳」(「近世史料館」蔵))

>   ||   とある。「三七」は年齢である。享保六年に三十七歳であれば、当時は数え年であるから、逆算すると

>   ||   貞享二年(1685)の生まれとなる。

>   || 藩主・前田綱紀の時代に御料理人として仕え,台所御用をつとめ,1722年(享保7年)から前田綱紀の

>   ||      「御膳方」をつとめる。

>   || 1722年(享保7年)に江戸幕府の台所頭小川甚四郎に師事し薗部流の庖丁伝授を受ける。

>   || 小川甚四郎から包早は、三十八歳の享保七年(一七二二)三月二十五日に「島之切揃」と「鯉之切揃」、

>   ||    享保十二年(一七二七)三月一日に「魚之切揃」を相伝されていることがわかっているが、このほかにも

>   ||    伝授を受けていたかもしれない。

>   || 四條流の「幕府台所人」に師事。

>   || 1725年(享保10年)に藩主・前田吉徳の「御膳方」をつとめ,10俵加増され計45俵になる。

>   || 包早(六代藩主・前田)吉徳に「御膳方」としてつとめるのは、綱紀が没した後の享保十年(一七二五)

>   ||   十一月からである。」 

>   || また,三代目安信とともに,1729年(享保14年『料理無言抄』(加賀文庫蔵)を編む。

>   || 『舟木伝内随筆』は、享保十年(一七二五)の成立である。この年、包早は四十一歳である。

>   || 享保十七年(一七三二)十月に編まれた『料理方故実伝略』は、料理の故実に関して簡略にまとめたもので

>   ||   ある。

>   || 『調飪禁忌弁略』は包早が編んだものである。

>   || 『料理方故実伝略』が編まれた翌年の享保十八年(一七三三)六月、『調飪禁忌弁略』が編まれる。

>   || 「元文二年(一七三七)六月、米十俵が加増され、計四十五俵になる。」

>   || 1743年(寛保3年)御膳方をよくつとめたことにより,新知として80石を拝領。「御膳方棟取」を仰せつけら

>   ||   れる。

>   || 「舟木家の歴史上特記すべきことが、包早五十八歳の寛保三年(一七四三)正月に起きる。常々役儀を心

>   ||   け、御膳方をよくつとめたとして、あらたに八十石を拝領したのである。それまで切米すなわち米俵で支給

>   ||   されていたのに対し、この後は知行取すなわち領地を与えられたということである。これは加賀藩士として

>   ||   「格」があがったことを意味する。

>   || また「御膳方棟取」に任命されている。」

>   || 「六代藩主吉徳は、延享二年(一七四五)六月十二日に急逝する。同年七月二十五日に吉徳の子の宗辰が

>   ||   七代藩主となる。

>   ||   こののち包早が七十五歳で病死する宝暦九年(一七五九)七月まで(中略)包早は宗辰のときには御台所

>   ||   御用をつとめているが、その後の藩主については不明である。」

>   || 「『料理無言抄』には、(中略)(俳号に)「舟木可笑」とある。(中略)『料理無言抄』に記すのだから、その編

>   ||   ある包早であろう。」

>  (桜田御前様付賄人小川伝兵衛の娘(1765年明和2年正月没。本名は不明)。

        加賀藩六代藩主前田吉徳側室の子・桜田御前に仕える

 

 兄 舟木津左衛門

>   || 「「先祖由緒」によれば、嫡子であった津左衛門は病死してしまい、次男であった長左衛門安信が後を継い

>   ||   でいる。いつ包早の長男津左衛門が亡くなったかは不明である。」

>   || 「『料理無言抄』全巻の成立については定かでないが、享保十四年(1729)に成立した巻がある。その中

>   ||   に、包早安信の二人の共編のものがあり、長男をさしおいて次男と編纂するということはなかろうから、そ

>   ||   れ以前に亡くなっていたと考えられる。」

>   || 「また後でのべるように包早の次男安信が、御料理人として召し出されるのは、元文四年(一七三九)十二

>   ||   月のことであり、遅くともこれ以前に津左衛門は亡くなっていたと考えられる。」

>   ||

> [舟木家・三代目]

>  舟木長左衛門安信(生年不詳-1779没)----------------------------------------

>   || 「「先祖由緒書」では長左衛門の実名を不明としているが、『式正膳部集解』の巻末に

>   ||       安永五年春弥生 舟木長左衛門安信

>   ||   とあり、「安信」という名であったことが知られる。」

>   || 包早の次男安信が、御料理人として召し出されるのは、包早五十四歳の元文四年(一七三九)十二月の

>   ||   ことである。七人扶持であった。御料理人の子弟が召し出される定禄である。

>   || 1739年(元文4年)より御料理人として仕え,

>   || 1746年(延享4年)に「政所様御料理人」,禄は切米30俵となる。

>   || 延享四年(一七四七)、「政所様御料理人」に仰せつけられ、禄が切米三十俵となる。

>   || 寛永元年(一七四八)、政所様逝去につき、翌年七月から御台所奉行支配となる。

>   || 1749年(寛延2年)に「御台所奉行支配」,

>   || 1754年(宝暦4年)には藩主・前田重教の「御膳方定役」になり,「家藝」(料理)に熱心に取り組ん

>   ||   でいたため,切米が5俵追加し,計35俵となる。

>   || 宝暦四年(一七五四)三月、藩主前田重教の御膳方定役を仰せ付けられる。

>   || 翌月には「家芸」の心掛けがよろしく、御用もつとめているということで、切米五俵が加増され、計三十五俵

>   ||   となっている。先にものべたが「三十五俵」は「御料理人」の定禄であるから、禄高としては、これで一人前

>   ||   「御料理人」になったことになる。

>   || 宝暦七年(一七五七)八月、安信は、御膳所に代わって御台所御用を仰せ付けられた。

>   || 1757年(宝暦7年),「御台所御用」をつとめ,

>   || 1759年(宝暦9年)に父の遺知80石を拝領,

>   || 同九年七月に父が病死したため、十二月に父の遺知八十石を拝領している。

>   || 1766年(明和3年)10月24日または安永元年(1772年)に「御料理頭」となる『諸頭系譜』

>   ||   (「金沢市立玉川図書館近世資料館」蔵)

>   || 「先祖由緒書」によると、安永元年(一七七二)十月、御料理人になっている。

>   || ただし「諸頭系譜」では、それを明和三年(一七六六)十月二十四日とする。

>   || 安永四年(一七七五)には、五節句に関する口伝を記し、『五節句集解』を編んでいる。

>   || 安永五年(一七七六)三月には『式正膳部集解』を編んでいる。この年には四条家の秘伝書『産所之次第』

>   ||   という出産儀礼の伝書を林某に書き与え、

>   || 安政七年(一七七八)のころに『庖厨調飪規矩』を編むなどしている。

>   || 安信は安永八年(一七七九)十二月に病没する。享年は不明である。

>  (御算用者)小川清大夫の娘(御算用者小川清大夫妹)、寛政十一年(一七九九)三月に病死しているが、

>       享年は不明である。

 

> [舟木家・四代目]

  舟木長右衛門安通(生年不詳-1804没)-----------------------------------------

>   || あるいは知左衛門

>   || 御料理頭になったおり、安信が役儀を一生懸命につとめている褒美として、息子の知右衛門安通

>   ||   (ちえもんやすみち)が、五人扶持、銀五枚で、御料理人として召し出されている。

>   || 1766年(明和3年)に料理人となり,

>   || 1780年(安永9年)に遺知80石を拝領。

>   || 安永九年(一七七九)五月、安通は父の遺知八十石を拝領し、

>   || 天明三年(一七八三)五月、某に亡父の残した『五節句集解』を秘伝書として伝授している。

>   || 寛政九年(一七九七)七月、御料理頭取となる。御料理頭の次に位置する役職である。

>   || 1797年(寛政9年)に「御料理方棟取」を仰せつけられる。

>   || 寛政十一年(一七九九)九月、安通は、妻との間に子ができなかったためか、津田兵庫与力舟木平六

>   ||   (文化十五年(一八一八)二月病死)の三男を養子にむかえている。名字からして親戚筋にあたるものと

>   ||   考えられる。

>   ||   光顕みつあきといった。

>   || 享和四年(一八〇四)、江戸で御料理頭に代わって年頭規式「鶴包丁」をつとめるが、病気が悪化、加賀に

>   ||   戻り、

>   || 九月に病死している。

>  (明組与力)中山源五郎の娘(明組与力中山源吾郎妹)、天保三年(一八三二)閏十一月に病死している。

>       享年は不明である。