感動的な開会式から一転、競技が始まると北京五輪は疑惑の判定や不公正な採点ばかりが目についた。しかし、このネット社会でオリンピックにおける様々な視点からの報道がなされると、五輪やスポーツの大会そのものに対するいろいろな人のコメントを読むようになり、そのような報道や世論が起こることも含めてオリンピックの意義なのではないかと昨日から思うようになった。
五輪の体制には誰もが疑問を持っているが、普段の国際大会でもアジア人に不利な判定は行われているのかもしれない。ドーピングの疑惑も常に付きまとっているのかもしれない。しかし、五輪ほどテレビで世界中の人が多くの種類の競技を観戦して、その問題を当事者以外の人たちが考える機会はなかなかない。
選手たちは五輪だけが注目を受ける機会と思わずに、その一流のプレーが見る人たちにスポーツや種々国際政治的問題に目をむけさせたことを誇ってほしい。

テレビの前の応援も本物だ。これほど一生懸命に打ち込んでいる選手たちに不公正な審判が下ってはならないと多くの人が当事者自身の気持ちになって思っている。普段は反目しあっている隣国のフェアプレーの精神にも感銘を受けている。俄かファンがものの数にならないわけではない。スポーツをとりまく様々な政治的な問題や国際情勢を考える機会にもなっている。なぜ、アジア人にはそのような理不尽がまかり通るのか。欧米人は本当にみな有利な裁定がなされているのか。人々はよく考え、己の意見を発信している。

Yahoo!のコメント欄にあるように、スポンサーが自らオリンピックに代わる国際大会をフェアプレーの精神に基づいて主催したり、ギリシャに開催地を固定するというのも建設的な案だろう。ただ、ボランティアを集めることや公正な審判員を選抜することにはオリンピック同様の課題が残る。トップの頭だけ挿げ替えても、それにかかわる人たちの精神にフェアプレーが根付いていなければ、その黒いシミはどんなに洗おうとしても落としがたく、むしろ広がってしまうものだろう。

選手が誰より素晴らしいパフォーマンスをしたいと思うのは当然だ。その気持ちを利用しようと思う者は、何も黒い政治家や一部の黒い国際組織に携わる人たちばかりだとは限らない。選手たちがそのような黒い思惑に巻き込まれず、また誘惑に引き込まれないようにするには、参加者の年齢制限を引き上げるのも一つの案である。それだけでなく、成人者には厳しいルールの適用があってしかるべきだろう。オリンピックが目指す一流の選手の選出は、一流の仕儀ばかりでなくそのための努力と人間として曲がったことはしないという立ち居振る舞いの人物評価も含んでいる。

素晴らしい科学者や素晴らしいオリンピック選手が将来政治家になれるような素晴らしい人格者であることは必ずしも望まれないが、世界中の人々を一流の仕事で魅了する人は、自分自身が世界に与える影響を考えられる人物であることが望まれるだろう。