“Lucia y el Sexo” (邦題は、「ルシアとセックス」)
2001年製作で、監督はJulio Medem.(フリオ・メデム) 彼の映画はこれ以前に、「アナとオットー」という作品も日本公開されてて、ケッコーな人気を得た。
そして、この映画は「Sex & Lucia」という名でアメリカでも公開され、批評的にも興行的にも大成功を収めた。また、スペインのアカデミー賞、ゴヤ賞でも、11部門にノミネートされ、主演女優賞とスコア賞に輝いてる。
が、ここ日本では、ただのソフト・ポルノとしてこの映画を扱ってる。ツタヤなんかに行けば、それが分かるだろう。この温度差は何だろうか?まぁ、それにもナットクするほど、この映画はタイトル通り、エロい。
だけど、それよりも何よりもとにかく美しい。
これは僕にとっての、Best Beautiful movie.だ。とにかく、どのシーンを取っても、PCのウォール・ペーパーにしたいほど、すきまなく美しい。
ベルトルッチといいキュアロンといい、ラテン系のフィルムメーカーは、どうやってこんなに美しい映画を撮ることが出来るんだろう。ちなみに、このSex&Lucia.は、Kiko De la ricaというキャメラマンによる撮影。大拍手!!!
下の写真は、母娘の死別をシンボライズする、空想的シークエンスだが、この美の映画の中で、最も美しいものと言える。
また、女優たちも、天才キャメラマンの景色に負けずにキレーだ。
主演のパス・ヴェガ、助演のナイワ・ニムリ。
が、何よりも魅力的なのは、7才くらいの少女、Luna.を演じた、Silvia LIanos.だ(上の写真2つ共に写ってるコ)。別に演技力があるワケじゃない。ただ、見てるだけでハッピーにさせるキュートさを持ったコなだけだ。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
おまけにこれはドラマとしても超1級品。Medem監督は1貫して、カルマ(輪)をテーマにしててここでも、何度も挿入される「満月」をメタファーにしてそれが表現されている。
美、エロ、貪欲、不条理、罪、絶望、そして、救い。
この映画では、こういうカルマが読み取れる。そして、これは大きく見れば、人生で誰もがたどるカルマじゃないだろうか。それが、この映画では、とてもポジティヴに描かれていて、生きること自体が偶然や奇跡の連続だという事も教えられる。
この映画には、人生のすべてがある。
とにかく、美に、そして運命的な人生ドラマに酔いたいと思う人には、超おすすめの1本。
たぶん、ほとんどのヴィデオ・ストアでは、この映画をAVルーム近くのエロ・コーナーに置いてるだろうが、女性の方でもためらわずに借りましょう。
特に、恋人とのセックスが退屈、という人に、この映画は必見です。間違いなく、すばらしいヒントが得られるでしょう。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
≪2022年: 追記≫
シンクロニシティ
意味でまとまるメタストーリー
久しぶりに観返して、この映画評には抜けている最も大切なポイントがあったので追記。
「ルシアとセックス」は、
虚実混交のメタストーリーであり、
現実的な合理性ではなく
概念的な整合性・つまりシンクロニシティ
でストーリーがまとめられている。
ここにこの映画の中核があり、革新性がある。
多くの人は偶然が過ぎるため、この映画は現実には到底ありえない話だと思うだろう。だが、その物語としての破綻、非現実性が度を越しているからこそ、その裏には何かがあるのではないかと思わせもする。
つまり現実的に破綻した話だからこそ
概念的な意味を喚起させるのだ。
ルシアとエレナが島で出会い、ロレンソと娘のルナがマドリードで出会い、カルロスがエレナと出会う事。1つでも不合理なのに、このように3つ重なることで、この映画は完全にリアリティを失っている。
多くの場合、こうなれば子供だましの漫画的な産物になるのだが、この映画は違う。このアンチ・リアリズムによって、映画のキャラクターや筋は抽象概念化するのだ。
そこで思想家ユングの言う
「シンクロニシティ」が浮かび上がる。
シンクロニシティとは、意味・概念を元に
偶然の連鎖が起こる事を指し
ユングはそれを秘められた
この世の摂理と見ていた。
そのシンクロニシティがこの物語の根底にもある。
偶然の連鎖によって映画のキャラクターや筋が
何らかの意味を持って、抽象化する。
それによって「ルシアとセックス」は
現実と虚構に分かれながら
すべてが意味・メタファーとして
繋がる構造になるのだ。
キャラの出会いの現実的な合理性から判断すれば、何がこの話の現実で何が嘘(作家のロレンソが生み出したフィクション)だというのが分かる。
この映画で現実的な出会いは、ロレンソとルシアのものだけで、あとの偶然にすぎる出会いはすべて虚構。つまり、エレナもルナもカルロスもベレンもみんな虚構の存在であることが読み取れる。明確化されてはいないが、それらは作家であるロレンソが生み出したものだ。
多くは虚構のキャラがありえない偶然の連鎖で絡み合ってゆくと、必然的にそこからは現実的な合理性が消えてゆく。
そしてユングのシンクロニシティというもう1つのこの世界の流れが出てくる。そこで鑑賞者は、キャラやその出会いにはどんな意味があるのかと考え始め物語が抽象概念化する。
この映画の本質はロレンソとルシアのロマンスで読み解ける。
つまり、映画世界は現実と虚構に分かれ
すべてがメタファーとして繋がる構造になるのだ。
キャラの出会いの現実的な合理性から判断すれば、何がこの話の現実で何が嘘(作家のロレンソが生み出したフィクション)だというのが分かる。
この映画で現実的なのはロレンソとルシアの2人とそのロマンスだけで、あとのキャラと偶然すぎる出会いはすべて虚構。
つまり、エレナもルナもカルロスもベレンもみんな虚構の存在であることが読み取れる。
キャラのほとんどが
ロレンソという作家が生み出した人物
になることで
各人はなぜ生み出されたのか
という疑問が生まれ、
それぞれに概念が
自然と与えられることになる。
その概念・コンセプトは、ロレンソとルシアのロマンスが中核になっている。
ロレンソはルシアと出会って性愛の中で彼女への愛情を深めていった。だが、ポルノ女優の母親を持つベレンの登場で、彼の中に浮気心が出てくる。
実際にセックスに至るが、そのせいでロレンソは実の娘、ルナを事故死させてしまう。ルナの母親、エレナはかつてロレンソと島の海で愛し合い、彼には知らせずにルナを生んでいた。
この筋書きによって、それぞれのキャラの概念的な役割が読み取れる。ロレンソにとってエレナは純愛、ルナはその結晶、ベレンはそれを乱す肉欲・悪いエロスである。
ロレンソの心の中核にあるのは、
セックスの陰陽、
つまりエロスが秘める純愛と強欲という
アンビバレンスだ。
ルシアとセックスを重ねることで、
ロレンソはセックスが愛を育むものだと知る。
だが、同時にほんぽうな性欲が
浮気や性依存といった堕落にもなることを恐れる。
そこで彼はその負の部分を虚構・小説にしようとした。
映画の中ではロレンソの性愛に対するこの陰陽の考えが
現実と虚構として混ざり合って表現されている。
だからこそ気づきにくいのだ。
後半、セックスの陰部に翻弄され、純愛を失ったロレンソは自殺未遂を図る。しかし無事に助かってエレナやルシアと再会してハッピーエンドとなる。ここには、セックスの陰陽カルマをぐるっと一周するような概念的なまとまりがある。
一方で、ルシアとエレナの出会いは、ロレンソにとって彼がルシアに対して純愛を貫きたいということの表れ。
そして2人にカルロスというベレンのポルノ女優の母の愛人を迫らせたのは、その自らの純愛の中にも、セックスの陰部、どろどろした欲望がふくまれていることを示している。
現実的に見れば漫画のようなありえない
出会いに満ちた「ルシアとセックス」だが
シンクロニシティ・意味として見れば、
ストーリーは綺麗にまとまる。
この映画は最終的に
性愛の中にある純愛と強欲というアンビバレンスが
1つにまとまることでハッピーエンドとなる。
監督と脚本を担当したフリオ・メデム監督がそう意識して作ったかどうかは分からない。だが、映画がそうであることを語っているのだ。
虚実混交のメタストーリーという点で世界の映画サイト「IMDB」のユーザー評『Meta-story and story』でも、この点をテーマに見事なレビューがなされているので、合わせて読んでほしい。
この評では映画『マルホランドドライブ』に似ていることが比較されている。この映画はマルホランドと較べるとより鮮明になる。
マルホランドの場合は、前半がヒロインの願望で後半は現実とほぼはっきり区別されているので、多くの人がストーリーを理解できる造りになっている。だが、この映画の場合、ほとんどがロレンソの心理的な葛藤を元にした虚構なので、分かりづらくなっている。
この映画を初めて観て20年たってようやくこの概念的な構造に気づいたのもそういうワケだ。確かな構成力があればマルホランドのようにより多くの人に受け入れられていだだろう。
だが反面、マルホランドはテーマとしては弱く、「ルシアとセックス」はその点では非常に強い。真に後世に残る名作とは、やはり概念として重みをもつものに違いない。20年を経て見るとこの映画は別の顔を見せたが、変わらず僕にとって普及の名作だった。■