片づけしてたら、たくさんの本に埋もれて、故郷の新聞社が発行した方言の本が出てきた。
私の生まれて育った市独特の言葉が並んでいる。
私の故郷の言い回しは、日本一悠長なのだそうで、言われてみれば確かにおっとりしている気がする。
京都の言葉のような可愛らしいおっとりではないけれど。
普段、当たり前に使っているので、方言だとは思わなかった事がたくさんある。
おっとそうか、と思ったのが、間延びした言い方。
目がかゆい、は、めがかゆい、だけれど、私達は、めーがかゆい、と言ってる。
歯が痛い、は、はがいたい、だけれど、私達は、はーがいたい、と言う。
戸を閉める、は、とーをしめる。
田に水を張る、は、たーにみずをいれる。
温泉の湯、は、おんせんのおゆー。
綺麗な絵、は、きれいなえー。
矢が飛んできた、は、やーがとんできた。
これらのイントネーションは、聞かないとわからないと思うので、省略します。
東京辺りの方には、じれったい言い回しだと思われそうですが、この間延びした言い回しはなかなか抜けないものだと気づかされました。
だって私、今でも、そう言ってるもの。
それから、本の中で見つけて思わずうなづいたのは、もうまあ、という言い回し。
ちょっと文章を借りますね。
もうまあ来るよ、と言ってもすぐには来ない。もうまあ始まるよ、と言っても始まる気配なし。もうまあ終わる、と言ってもなかなか終わらない。
きっと、他所の方には、じれったい事でしょう。
友達、親兄弟、じいちゃんばあちゃん、隣近所、みんな生活のテンポも話し言葉も、本当に悠長で、おっとりで、間延びしてる。
もうまあ死ないな、(もうすぐ死ぬよ)と言いながら、しぶとく生きている、もうまあ、こそ、長寿の秘訣。と書かれてあるけれど、それはどうかな?
そう言えば私が、同じ県内の、違うこの市に来て、
何度か、
奥さんはおっとりしてるね、って言われたことがある。
今更ながら、それは、この言葉の言い回しのせいだったのかもしれない。
私は、この市の言葉はとても荒い、いつも怒っているような気がする、と、よく夫にこぼしたものだけれど、夫は私の故郷で仕事をしていたので、そうかもしれない、と言うだけ。実際、夫の言葉は荒くないし、私につられてか私の言葉に近い。
若い時は、よく、難しいこの市の方言の通訳をしてもらったものだった。
言葉を気にしていたら、ほ、も多い。
そうだね、は、ほうじゃね。
そうなの?は、ほうなん?
そうだから、は、ほじゃけん。
そ、が、ほ、に変わる。
私は使わないけれど、
ほしてから、ほうよほうよ、ほしたら、ほうよなあ、ほうかな・・・
いっぱいあるのよ。面白いでしょ。
日本一悠長な方言だったなんて知らなかったけれど、今は私くらいの年から上の人じゃないと使わないかもしれない。ちょっと寂しいけれど。
だってね、私が使わないから夫が理解できない言葉がたくさんあったの。
ばっぽ、は、お餅。
おもぶり、は、混ぜご飯。
くらすま、は、薄暗いすみっこ。
たごる、は、咳き込む。
方言はお国の宝、って言葉がある。
標準語を使っているつもりでも、どこかに抜けきらない方言が顔を出すと気づいた。
それも良しだな、有りだな、と、この歳になってよーくわかった。
ほんなら、また明日も投稿しょうわいね。私はお湯ーに浸かってから寝よわい。
(では、また明日も投稿しますね。私はお風呂に入って寝ます。)でした。