パトリシア・コーンウェル(Patricia Daniels Cornwell 1956~ )は米国の推理作家。検屍官ケイ・スカーペッタを主人公とした検屍官シリーズが代表作。現代米国を代表する推理作家の一人。
本書は1990年から始まった「検屍官シリーズ」の6作目で1995年刊行。ベストセラー作家としての評価が定まった頃の作品である。フウズイッツ(犯人は誰だ)の初期の作品傾向から離れスリラー色を強めている。探偵小説というより(犯人は最初から特定されている)、極悪な犯人の恐怖に怯えながら、どう追い詰めるかという物語である。スリラー・ホラー小説流行の流れに乗ったとも言えるが、ケイを主人公として3人称一視点で書かれた本書はスリラー小説としては必ずしも成功しているとは思えない。だが、コーンウェルの愛読者の多くはケイの生き様を楽しんでいるのであり、その意味では十分に期待に応えている。
ケイはFBI捜査官ベントンとの不倫に悩み(ケイは夫が爆死したので独身だがベントンには妻子がいる)、禁煙に苦しんだ。いとしの姪っ子ルーシーはレズである。読者は、いずれもコーンウェル自身の経験だと知ってる。コーンウェルに関しては、作者の経験を作品に投影させたと言い切れないのも面白い。後の巻になるが、ルーシーが大金持ちになりヘリを操縦するようになったので自身もヘリを買って操縦免許を取得したと語っている。作中のキャラが作者の人生に投影されているかのようである。
本書を再読(あるいは再々読)した。さすがのボクでも、ケイが犯人から恐怖を味合わせられながらも追い詰め、犯人は死んだと朧げながら記憶していた。記憶通りのスリラー小説には違いないのだが、今回はかなり違う読後感だった。
恐怖の殺人鬼テンプル・ゴールトが殺した身元不明のホームレスは妹ジェーンだと分かるのだが、テンプルに負わされた傷が原因で魯鈍になったジェーンは幼児の時と同じようにテンプルを慕っていた。両親は双子の兄テンプルがジェーンを殺すことを恐れて、5才の時ジェーンを親戚に預けていた。母は現実が見えなくなり、兄妹は助け合い、親しんでいると夢見ていた。殺人鬼の兄、幼児の心のジェーン、夢と現実の境を失った母、苦悩しながら現実的に対処しようとする父。現実離れしていると思いながらも切ない。
悲しくも気高い家族の話が浮かび上がって来た。ケイは、周囲の無関心の中、無縁墓地(Potter's Field)に葬られたジェーンを家族の元に返そうとする。原題タイトルは”From Potter's Field”である。コーンウェルが描きたかったのはこちらではなかったかと思えて来た。さすがに巧者コーンウェル、一筋縄ではいかない。
「検屍官シリーズ」は2021年、5年ぶりに25巻目の”Autopsy”が刊行された。夫ベントンとバージニアに戻り不気味な殺人鬼と相対するスリラー小説となっているようである。楽しみである。Amazonで24巻目の”Chaos”は700円だが、こちらは新刊特価2650円。通常価格になるのを待って早く読みたいものだ。
<ストーリー>
マンハッタンの冬は厳しい。セントラル・パークは雪で覆われ、噴水は凍り付いていた。縁に寄りかかって座って死んでいる女が発見された。頭を銃で撃たれていた。女はなにも身に着けていなかった。
クリスマス・イブ。バージニアの検屍局長ケー・スカーペッタは恒例のプレゼント配りの車にリッチモンド市警第一管区長のマリーノと座っていた。この仕事が終わって、明日早朝にはフロリダの母と妹に会いに行き、久しぶりのクリスマスを家族で過ごす予定だった。母は長年の喫煙で肺気腫になり入院していた。妹ドロシーは大変だと騒いでいる。バージニア大学4年生でFBIのERF(技術研究所)にいるドロシーの娘ルーシーは友人のFBIアカデミー生ジャネットとフロリダに戻っていた。ドロシーは無軌道な女だった。幼い頃からルーシーはケイを慕い、ケイは誰よりも大事にしていた。
クリスマスは保安官ブラウン・ラモントのかき入れ時だった。サンタの扮装で「ホー、ホー、ホー」と低所得街を回る。住民から人気があったが、ケイは彼がドラッグや銃器を取引し、集めたプレゼントをネコババしていることを知っていた。ケイは黙っていたが、ラモントはケイを邪魔者扱いしていた。
マリーノは頑固で無作法な男だが熱心で筋を通す優秀な刑事である。最初は敵対したが、今では信頼し合う仲間だった。ケイはFBIの顧問検屍医を勤めており、マリーノは協力捜査官だったので一緒に捜査する機会も多い。彼が、警部補になった時も驚いたが、警部になって管区長になった時は度肝を抜かれた。捜査官としては優秀だが管理者には向いていそうにない。もちろん、妻ドリスに逃げられ落ち込んでいた時でもあり祝福した。
車は、とある公営住宅の前に停車し、ケイは自分が寄付した毛布を幼児トレヴィにプレゼントした。先月、母親が殺され祖母と住んでいる。同行していた記者たちがひしめきながら写真を撮った。
その時、裏庭で銃声がした。銃を持った男が倒れており、トレヴィの父だと噂されていた17才のアントニーだった。近くにいたブラウン保安官が現行犯で逮捕された。
マリーノのポケベルが鳴った。ベントン・ウェズリーからだった。セントラル・パークで女の殺害死体が発見された。テンプル・ゴールトの犯行に間違いないと。
ベントンは、今はFBIの捜査支援課を統括しているがプロファイル部門を創始した男である。ケイの死んだ夫マイクの同僚で長い付き合いだった。ケイは顧問として共同で捜査するうち、先年から不倫の仲となっていた。出張の都度、互いの部屋に忍んでいた。マリーノは心配していた。
ゴールトはFBIが追ってきた殺人鬼である。被害者数は不明だが、5人以上殺害しているのは間違いない。殺害方法は残忍、被害者は座らされ肉を切り取られていた。細身だが空手に巧みで最初の犠牲者は大男だった。ケイは過去の事件で狙われたこともあり、因縁の相手である。
リッチモンド空港にベントンが乗ったFBIのジェット・ヘリが立ち寄り、二人を乗せてニューヨークに向かった。
マンハッタンでは、交通警察のフランシス・ベン隊長が迎えてくれた。地下鉄で発生した事件は交通警察の管轄になる。被害者と犯人は地下鉄出口で交通警察の警官に喫煙を咎められて切符を切られていた。犯人は被害者を地下鉄で誘ったと思われた。女は男物の黒いコートを着て野球帽をかぶり、頭髪を剃っていた。男は異様な青い目で細身、ゴールトの特徴と矛盾しなかった。警官はホモのカップルだと思った。
フランシスが事件現場に案内してくれた。彼女は交通警察に4人いる幹部の一人だった。
ゴールトはグロック(銃)で女を撃ち噴水に立てかけて座らせ、肩と腿の肉を切り取っていた。森から足跡が続いており、帰りはブーツの靴跡だけ。雪は血で染まっている。マリーノは「女は、何故逃げなかったのか?」と言った。撃たれなくても厳寒のなかで死ぬ。森には靴を脱いだ跡が残っていたが靴も衣服も残っていなかった。
フランシスは管理支援も担当している。FBIが開発したCAIN(犯罪AI分析ネットワーク)を逸早く導入していた。事件を知り、CAINに問い合わせてテンプルの手口らしいと知りベントンに連絡したのだった。
CAINはベントンが主管して開発したシステムで全米の犯罪データベースを分析して犯人を割り出す。システムの基幹をプログラミングしたのはルーシーである。彼女は天才的なプログラミングの才能があり、ベントンが大学生ではあったがERFに呼び込んだのだ。ルーシーを危険にさらしたくないケイはFBIに関わるのに反対したがルーシーはERFを選んだ。
3人は準備されていたホテルに行った。ケイはフロリダで、ベントンは家族とクリスマスを過ごしている筈だった。しばらくベントンとは会っていなかった。ケイは、いけないと思いつつ燃えた。
ニューヨーク検屍局は国内最大である。年間取扱8千体。1/4は殺人の被害者で大半は身元不明のまま。ケイはホロヴィッツ局長とは旧知で、検屍に立ち会った。被害者は170センチと大柄で青白く、ホームレスのようだった。珍しい金歯治療をしている。西海岸では技術が維持されているという。脳に古い損傷があった。被害者は脳障害があったと思われた。
ベントンと現場周辺を歩いた。イタリアン「スカレット」があった。スカーペッタの縁戚かも。名前に興味を引かれて食事に行ったが貸し切りで一般客は入れていなかった。応対したウェイターに、ケイはスカーペットだと名乗って、先祖はヴェローナ出身だが主人はどちらかと聞いた。ウェイターは、スカーペット様は招待しているが、お連れ様ですかと言う。スカーペッタの姓は珍しい。招待している常連は、K・スカーペッタと名乗っていることが分かった。ケイのアメックスのクレジットカード名である。カードはルーシーに預けている。
ゴールトは、ルーシーからカードを盗んで使っているようだった。
フロリダのルーシーに電話した。カードは使わないので忘れていたが、ERFのデスクの引き出しに入れたままだという。急遽、クワンティコに戻ることになったので調べて連絡するという。CAINに不審な動きがあり呼び戻されたのだった。CAINがレイプ事件の問い合わせに「被害者な絶頂に達したか?」などシステムに組まれていない不適切な応答をしているという。
フランシスに誘われて彼女の自宅で食事を楽しむことになった。男世界で戦ってきた者同士、親近感を感じていた。食事前のワインで意気投合している時にフランシスに電話があった。ローワー・マンハッタンの荒んだ地域にあるセカンド・アベニュー駅の地下で交通警察の警官ジミー・ダヴィラが殺されているのが発見されたという。新人で新婚2カ月目、まだ子供なのにとフランシスは嘆いた。パーティーはお開き、ケイはフランシスについてセカンド・アベニュー駅に向かった。
線路脇の作業用通路はホームレスのねぐらになっており、寝具やビン、注射器などが散らかっている。通路の先にダヴィラが倒れており女性検屍医が検視していた。側頭部に打撲傷があり、眉間を撃たれていた。胸の上に凶器となったダヴィラのリボルバーが置かれている。検屍医は自殺の可能性を仄めかした。周囲にはドラッグが落ちている。ケイには、ゴールトが空手で倒し、銃で射殺したのが明白だった。誤りを指摘すると女性検屍医は意固地になって自殺を主張した。ドラッグ取引を後悔して自殺する警官もいると。フランシスが、ケイはバージニア検屍局長だと教えると彼女は黙った。
近くにいたホームレス、ベニーの居場所にナップザックがあった。周囲の足跡は公園のブーツの跡に一致している。ゴールトが置いていったものだった。わずかな着替えとサキソフォンのリードが入っていた。身元が分かるものはない。いつまでも氏名不詳では話しづらい、名前をつける事にした。マリーノが「ジェーンでどうだ」と言う。市警のメイヤー刑事が「独創的だな」と笑った。警察隠語で女性の身元不明死体をジェーン・ドゥーと言う(男性はジョン・ドゥー)。
翌朝、マリーノとモルグに行った。ダヴィラの検屍が行われる。隣にはジェーンがいて、ナップザックが届いていた。犬の写真が入っていた。ポケットには自然史博物館のチケットがある。ゴールトと博物館にいる所を目撃されていた。被害者は大人しく、男に従順だったという。ケイは、ゴールトはジェーンを地下鉄で誘ったのではなく、以前からの知り合いではないかと思い始めた。
午後、クワンティコに戻った。割り当てられているジェファーソン棟のスィートに行くとルーシーがいた。ジェファーソン棟の主な目的は狙われている重要人物の保護監視である。ケイはホテル代わりに使っている。
CAINの不審な応答はルーシーがログインしている間だけ発生していた。所内でルーシーを疑う声があり、ベントンが監視下に置くことで鎮静化したのだ。追い出すことは出来ない。ルーシーがいなければハッキングを追跡する事は不可能だと彼は知っていた。ベントンはケイのスウィーツを割り当てたが、疑われたルーシーはむくれていた。
警戒厳重なERFに入れてもらいルーシーのデスクで話した。カードと一緒に、ケイがルーシーに出した手紙や写真を入れた封筒も消えていた。
以前、ルーシーのデスクの隣にキャリー・グレセンがいた。天才的なハッカーでルーシーをERFに誘い、恋人だった女である。キャリーはゴールトと知り合い、犯罪に走り発覚して逃亡していた。ルーシーを利用していたと分かり、ルーシーは絶望して事故り死ぬ思いをしていた。
ゴールトはキャリーからも話を聞いている。ケイとルーシーの個人情報、事情に精通している。気が狂いそう。
ルーシーは、ケイの話には上の空で、端末を前にして棚に並ぶモデムの点滅を見ていた。
マリーノが迎えに来て、リッチモンドに連れて帰ってくれた。自宅の郵便受けにCAINからの手紙があった。ケイ宅には不適当な郵便物が数多く届くが、これはゴールトからだとしか思えなかった。「大丈夫」というケイに、マリーノは安全のためホテルに行かないのなら寝ずの番をすると言い張った。彼はケイの保護者だと自任している。
翌日は、早めに出勤した。検屍のスケジュールを確認すると、午前3時に自殺者の遺体を受け入れていた。事務所にあった受け入れ書類は不備で、持ち込んだ葬儀社は運送契約していない会社だった。受け入れた警備員のエヴァンスを呼んだ。採用されて日の浅い彼は書類を見ずに、遺体を運んできた男に、勝手にモルグに持ち込ませていた。検屍局の一般従業員はモルグに近寄るの嫌がる、男が出てくるのも見ずに警備室に戻っていた。ケイは遺体袋を開けた。頭部はゴミ袋をかぶり、上衣のポケットには手紙があった。刑事が証拠の回収もせずに遺体をモルグに送らせる事はありえない。ケイは、管区長のマリーノに電話した。刑事二人を連れて、すぐに来た。刑事は所内を調べに行った。
ゴミ袋をとった。遺体はブラウン保安官で眉間を撃たれていた。手紙には「ホー、ホー、ホー CAIN」と書かれていた。ゴールトだ。ケイの部屋の端末のスクリーンセーバーにはCAINの文字が躍っている。ゴールトは所内でケイを監視しているように見えた。
所内に潜んでいるかもしれない。マリーノは刑事を呼び戻した。一人が戻ってこない。地下の焼却ボイラーが火を噴いており燃えていた。刑事の一人が、空手で胸を蹴られ絶命、燃える炉に入れられていた。刑事を探している間に、検視局のバンが消えていた。
マリーノとブラウン保安官の自宅に行った。2階の広い寝室のベッドに血が溜まっている。部屋はピンクの壁、ラブホテル同様だった。隣は書斎で寝室を映す隠しカメラが設置されていた。マリーノはビデオを回収した。ホールのキャビネットには多数の銃器弾薬が貯蔵されていた。探せばドラッグも出てくるとマリーノは言った。
ケイは、フォート・リー基地の陸軍補給博物館に、セントラル・パークに遺された靴跡の写真を持って行った。館長のジョン・グルーバートとは親しい。ケイには靴跡は軍用ブーツに思えていた。
ゴールトは、ジョージア州オルバニーの裕福な農園で生まれ育った。父母と妹がいた。農園が洪水で流されたので、両親はサウスカロライナの大きな農園を買い取り引っ越している。事件後、両親はゴールトと縁を切ったとされ、社会から身を隠し、FBIへの協力も拒んでいる。妹は西海岸に住んでいたらしいが所在不明。
ケイの写真を見た館長は第2次世界大戦当時の軍靴だと鑑定した。父親ベイトン・ゴールトの軍歴を調べるよう依頼した。テンプル・ゴールとが父親の軍靴を持っているのなら、家族が接触を維持しているかも知れない。館長は、軍歴は本人か縁者しか照会できないという。ケイは事情を説明し、あらたな犠牲者を防ぎたいと説得した。
オフィスに戻り、アメックスカードに電話し、ゴールトが持っている、自分のカードの使用履歴を問い合わせた。ニューヨークのイタリアン「スカレット」で数回使われており、ジェーン殺害の前日、22日に日帰りでリッチモンドへの航空券を買い、検屍局近くのギャラリーで買い物をしていた。航空会社に問い合わせるとゴールトは帰りには手荷物を預けている。ニューヨークの犯罪者がよくやるようにリッチモンドにグロックを調達しに来たのかもしれない。そうであれば、ジェーン殺害は計画的だったことになる。
ケイはカードの解約をする積りはない。ベントンからは、FBIには損害を補填する予算はないと言われていたが、ゴールトを追う細い糸だ。
旧知のシアトル検屍局長に電話して金歯修復をしてる歯科医、患者の情報を求めた。
あたりにゴールトがいるような気がしていた。ケイには、ゴールトの居場所は不明だが、彼はケイ、ルーシーの動きを密かに見つめている。
ルーシーが顔を見せた。安心したのかケイは倒れた。ルーシーは救急車でバージニア最高峰のMCV(メジカルカレッジ・バージニア)に送った。目をさますと仲良しのアナ・ゼナーが「私は往診はしないのだけど」とベッド横に座っていた。彼女は精神科医で、年上だが心許せる相談相手だった。医者としてではなく友人として駆けつけてくれたのだ。
アナは事情を聞いて、ゴールトはケイに歪んだ思いを抱いているようだと言う。猫が買主に噛み殺したネズミを運んでくるように。ブラウンはネズミなのかもしれないと。ドラッグ・銃器販売組織を手掛けていたブラウン保安官は、手下を刑務所に送り込むケイを憎み、アントニーに依頼して殺そうとしていた。話がこじれてアントニーを殺すことになったのだった。ケイには、俄かには信じられなかった。
アナは、必要なのは休養だと、彼女のサウスカロライナのバンガローの鍵を置いていった。そこでは誰もケイに気付かない。「誰も知らないから、私になりすましてもいいのよ」と。
休んではいられないケイは退院してマリーノの会議室に行った。ベントンが来ている。ルーシーとジャネットもいた。ブラウン保安官の寝室を映したビデオが流された。ベッドに寝ているブラウンに、全裸のキャリー・グレセンが口で奉仕している。かっての恋人の姿にルーシーが息を飲んでいる。ゴールトが現れて「時間切れだ」と撃ち、二人で遺体を運び出した。異常者のカップル。マリーノは”ボニーとクライド”だと言った。だが、ジェーンの殺害は二人での犯行ではない。
ベントンはFBIに戻り、ケイは自宅に帰った。ケイの保護監視を命じられているマリーノも一緒である。
翌日、検屍局に出勤する途中、ケイのカードが使われたジェイムズ・ギャラリーに寄った。主は、カードを使ったのはケイの息子だと思い込んでいた。蛇を形取った金の杖を買っていた。ゴールトは検屍局の周辺をうろついていたのだ。
ケイの部屋から、ルーシーのクリスマスプレゼントのドイツ製解剖用ナイフが消えていた。ゴールトが来ている。もしくは局員に協力者がいるのか。不安は部下たちへの猜疑へと変わりかねない。
グルーバート館長から連絡があった。ベイトン・ゴールトには軍歴がない。だが、伯父のルーサー・ゴールト将軍は第2次世界大戦で勲章を貰い、フォート・リーでも勤務経験がある。中将で退役し、シアトルに住んでいたが5年前に亡くなっていると。
ベントンにゴールトには伯父がいたと電話した。彼は、ニューヨーク市警同様ジェーンの身元探しにはケイ程熱心ではなかった。ホームレスの身元が判明してもゴールトの逮捕にはつながりそうもない。
マリーノは聞き込みを続けていたが、ジェーン殺害当時、キャリーはリッチモンドのモーテルに、バーで知り合ったアポロニアと一緒だったと探り当てた。モーテルには、既にキャリーはいなかった。アポロニアは、ブラウン保安官と交際がありドラッグの取引相手だった。彼女が手引きしたと見て間違いなかった。
ケイはクワンティコに行った。ERFのルーシーのデスクに行った。ルーシーはCAIN侵入の手口を見つけていた。キャリーが在職中に床下にモデムを仕込んで非常用の回線に繋いでいた。あまりに稚拙な手口なので発見が遅れたと。だが、ルーシーは気付かないふりをしてログイン先を追っていた。
ベントンに呼ばれた。陸軍省から高官が来てゴールト将軍とテンプル・ゴールトの関係が表沙汰にならないよう匂わせて帰ったと。陸軍省では勲章受章者、将軍たちの名誉は絶対だ。将軍の情報からジェーンに近づくのは難しい。
シアトルの歯科医から電話があった。ジェーンの歯は金歯修復学会で発表された事のある有名な例だという。だが、治療した歯科医は引退しておりカルテは残っていなかった。身元は分からない。だが。ケイはジェーンはテンプルの妹ではないかと感じ始めていた。
ニューヨーク検屍局に電話し、ジェーンのDNA検査を依頼した。局長ホロヴィッツは。申し訳なさそうにジェーンは無縁墓地に埋葬されたという。ニューヨークではモルグに遺体を長期間保管する余裕はない。しかも、ジェーンの証拠物件も消えたという。ニューヨーク検屍局は、規律の緩い組織ではない。ホロヴィッツは不思議がったが、DNA検査は容易ではないと分かった。
元日が過ぎ、ケイはヒルトンヘッドのアナ・ゼナーのバンガローに行った。広大な敷地の中の田舎風の屋敷だった。ゴールト夫妻の農園にも近い。
ライブ・オークス農園は、昔は観光ツアーのコースだったが、いまでは案内板すらない大きなペカン農園だった。農園に入ると男が仕事をしていた。ケイは、バージニア検屍局長だと名乗って、主人に会いたいと告げると、彼は「世間は私らを放っておいてくれない」と嘆きながら、ベイトン・ゴールトだと言った。
テンプルの妹を探しているのでと事情を聞いた。ベイトンは話してくれた。奇しくも妹の本名はレイチェル・ジェーン・ゴールトだった。
「テンプルの双子の妹ジェーンは兄を慕ったが、テンプルはいつもねたみ、憎んでいた。テンプルは悪さを繰り返したがジェーンは従順でテンプルを信じていた。5才の時、テンプルはジェーンが可愛がっていた子犬を殺しベッドの上に投げ捨てていた。このままではテンプルはジェーンを殺しかねないと虞れ、シアトルの兄ルーサーにジェーンを預けた。ジェーンはピアノとサキソフォンが得意な感受性の強い子で、ルーサーは息子2人だったこともあり、可愛がってくれた。妻レイチェルと時々シアトルを訪れて会ったが、連れて帰るわけにはいかなかった。ジェーンが25才の時、誕生日にオルバニーに行きたいと言い出し、ルーサーが連れて来た。兄妹は食後、ペカン園に散歩に行ったが戻って来たのはテンプルだけだった。慌てて探すとジェーンは馬小屋で倒れていた。医者は馬に蹴られたのだろうと言った。頭を蹴られたジェーンは魯鈍になり、元に戻ることはなかった。ジェーンは、ルーサーが死に、ひとりで暮らすようになった。戻るように言ったが放浪を続けた。時々、レイチェルに電話してくる。フィラデルフェアでサキソフォンを失くしたと言っていた。盗まれたのだろう。クリスマスの1~2週間前にもニューヨークから電話があった。金が必要になれば電話してくるのだが、レイチェルに任せている。テンプルからは連絡はない」
言葉を切って「ジェーンは死んだんだろう。あなたは検屍官だ」と。事情を説明し、DNA確認のために協力して欲しいと頼んだ。ベイトンは「娘を無縁墓地に葬りたくはない。なんでも協力する」と言った。
テンプルのブーツはルーサーから貰ったものだろうかと聞くと「ルーサーはブーツでテンプルを蹴とばすことはあっても、やるわけがない。ジェーンのブーツを盗ったのだろう」と言った。大柄なジェーンは、ルーサーとサイズは同じだとも。
ベイトンは、ケイを屋内に誘った。居間では妻レイチェルが刺繍をしていた。話を切り出すと「テンプルとレイチェルは、仲のいい兄妹ですの」と言う。彼女は現実が見えなくなっていた。「テンプルから電話があったので、レイチェルもニューヨークにいるので会いなさいと言ったの」と言う。テンプルにも用立てていたようだった。ベイトンは悲しそうな顔をして黙っていた。知らなかったのだ。レイチェルは大層な資産家の娘なので自由になる金を持っている。
ジェーンには電報為替で送っていた。ジェーンが通う薬局に送り、合言葉を言って受け取っていた。ジェーンは身分証明書を持っていない。送り続けていた。ジェーンは死んでいる。テンプルが横取りしていたのだ。また送っていた。今度もテンプルが受け取るのだろう。
レイチェルは、夢想した家族の楽しい日々を現実であるかのように語り続けた。
ベイトンが「レイチェル、テンプルはジェーンを殺したんだよ」と言い聞かせた。彼の目には涙が流れていた。
ケイは、その日のうちにリッチモンド空港に着き、家には帰らず、クワンティコに向かった。ベントンに会いに行った。マリーノと出かける準備をしていた。ルーシーがCAINを捕えたと。ルーシーはニューヨークの交通警察の本部に間借りして調査していた。フランシスのシステム設備は充実しており、しかも市内や地下道のマップも連動している。ゴールトはセントラル・パークを見下ろすマンションに住んでいた。FBIや市警の特殊部隊が続々と出動していた。ゴールトはマンションにはいない。市街で逮捕劇を繰り広げるわけにはいかない。ゴールトは無差別殺戮を始めるだろう。地下道に追い込んで逮捕する作戦だった。フランシスは指揮所をブリーカー・ストライカー駅においた。乗降客の多いセカンド・アベニュー駅の隣で、通勤駅なので電車はウィークディしか停まらない。ルーシーも一緒で、持ち込んだシステムでゴールトを監視していた。ゴールトの現在位置は不明だった。
ケイは、ジェーンはテンプルの妹で薬局で電報為替を受け取ると話した。ベントンとマリーノは驚いた。ベントンはすぐに作戦変更を建議し、薬局とセカンド・アベニュー駅に特殊部隊を密かに配置する事になった。
3人はジェット・ヘリでマンハッタンに向かい、ベントンはFBI支局に行き、マリーノは部隊に加わった。ケイはフランシスの指揮所に入った。ルーシーはモニターでセカンド・アベニュー駅を監視していた。ゴールトは現れない。
ケイはフランシスにジェーンはゴールトの妹だったと事情を説明した。話を聞いていた市警のメイヤー刑事は「余計なことを・・」と毒づいた。「ゴールトは仲間の警官ダヴィラを殺したが、悪評を嫌う市のオエラ方は自殺で処理しようとしている。ホームレスなら検事は動かないだろうが身元が分かれば起訴するだろう。だが、ニューヨークには死刑がない。彼はバージニアで起訴されなければ・・」と怒っている。モルグにあったジェーンの証拠物件を始末したのはメイヤー刑事の仕業だった。フランシスは彼を停職にし帰らせた。
ケイは待機した。フランシスの配下は部隊に加わっている。ケイはハンドバッグから愛用のブローニングを出してテーブルの上に置いた。
ルーシーは、ゴールトは人の多いセカンド・アベニュー駅を避けて、地下通路からブリーカー・ストライカー駅に向かったのではと疑い、この駅のモニターに切り替えた。人気のない駅構内が映った。片隅に現れた女はキャリー・グレセンのようだった。ルーシーはケイの制止を振り切って飛び出した。ケイも追ったが廊下の先のルーシーは見えなくなっていた。ブローニングは消えていた。
ケイは構内を探し、線路に降りた。ゴールトがルーシーを羽交い絞めにしてナイフを突きつけていた。線路の上にはメイヤー刑事の死体が転がっていた。
ケイは必死だった。「あなたの狙いはワタシでしょ。ルーシーを放しなさい」と説得した。ゴールトはナイフを捨て、ルーシーの銃を手にして突き飛ばした。ルーシーを受け止めようとして一緒に線路に倒れた。ゴールトは引き金を引いたが発射されなかった。ブローニングのセイフティはグロックとは違い特殊だ。
ゴールトは怪訝な顔で銃口を見てブローニングを捨てた。ケイは飛び込んでナイフを拾い、蹴ろうと構えたゴールトの足に突き立てた。血を見たゴールトは「医者だろ。助けてくれ」と悲鳴を挙げ、青白い顔を向けた。スナイパーの銃声が2発。ゴールトは線路上に崩れ落ちた。
翌日、FBIのジェット・ヘリでクワンティコに帰った。ベントンとルーシーが一緒だった。マンハッタンを発ったヘリは西ではなく、東に向かった。イーストリバーに無縁墓地の島、ハーツ・アイランドがある。ヘリは島の上空で低空飛行をした。マンハッタンに戻る川船が棺を積み込んでいた。
ジェーンは家に帰る。