こんにちは!
本日もお越しくださりありがとうございます
イシュタルリバイブ 岡田ゆう子です
今年最後の12月になりましたね!
この紀行文もようやく今日が最終章です。
ちょうど1ヶ月前のことになります。
浦島太郎現象はまだ密かに続いていますが少しずつ、私も私の周りも変化している気がします
今日も、どうぞお付き合いくださいませ
11月3日。
霧島神宮をあとにした私たちは、昔ながらの鹿児島ラーメンのお店に行きました。
ラーメンも、時代やお店によって独自に開発したり流行りがあるそうですが、ここのお店は昔から変わりないスタイルを貫いているそうです。
有名人のサインもたくさん飾ってありました!
その後、地元の人たちが「炭酸温泉」と呼んでいる温泉に寄ってから帰宅しました。
さあ、最後の夜です。
今や一族の語り部となっている叔母から、たくさんの話を聴きました。
ちょうど今年維新150年という中で、子どもの頃から聴いていた話を
兄弟、姉妹、従姉妹、親子で聴くことができました。
150年前から語り継がれてきた話です。
西南戦争(1877年)終結後も、鹿児島にはまだ政府軍が残っていました。
生き残りの士族を探していた とも言われています。
西郷さんが亡くなった後も、政府軍としては薩摩軍は目の上のたんこぶのような存在だったのかも知れません。
そんな時、ある家に複数の政府軍がやってきました。ひとり家にいた女性は
「見つかったら殺される」
と思い、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて急いで裏口から外へ出て、畑の茂みに隠れたそうです。
しかし、すぐ見つかってしまいました。銃口を向けられ
「この家の者か」
と聞かれ、恐怖で頷くことしかできなかったそうです。
「では、その赤ん坊もそうだな」
と言われた時、その女性は
「この子は、私が不貞をはたらいてできた子です。この家とは関係ありません。ですから、この子の命だけは助けてください」
と言いました。
たったひとりしかいない我が子を守るために、とっさに口から出た嘘でした。
政府軍はそのまま何も言わずに立ち去り、その女性も赤ん坊も命が助かりました。
その時の赤ん坊が、今回「法事を行なった祖母」の「母親、ヨシさん」です。
残された女性たちが、どれほどの思いで家族を、家系を、一族を守ろうとしたか……。
当時の女性たちの想いは、今の私がどんな言葉を並べても表現することはできません。
しかし、その先に私がいる ということは間違いなくその想いがあったからです。
幼い頃から聴いていた話でしたが、自分もある程度歳を重ね、様々な経験をして、こうして大切な親族と共に 命あることの不思議さ、深さ、ありがたさを感じながら聴くことができた事は尊い時間となりました。
以前も書きましたが、歴史を動かしたのは大抵の場合男性でしたが、その裏にある、守るもの、守ってきたもの、語り継いできたもの、そしてそれを後世に残してきたのは女性だったのだと思います。
そして、今また世の中が変容する時代に於いて、それぞれの立場で 今自分にできることは何か と自分自身に問うてみることは大切なことだと思いました。
さて、翌日。
たくさんの人たちに見送られ鹿児島をあとにしました。
晴れ渡った青空の中のフライトだったのに、名古屋は大雨でした。
帰りたくない 行ってよかった 感謝の想い の涙雨です。
途中、愛知にいる息子のところに寄り、一緒に焼肉ランチをしていた時…。
なんか、ものっすごーく硬いものが口の中に。。。
「あっ、歯が欠けた……」
2度目です
長年、寝ているときの〝くいしばり〟により、私は自分で自分の歯をカチ割るくらいに痛めつけていたのです
頑張って頑張って、寝ている時でさえ何かに耐えて、身体は緊張したままだったのでしょう。
長年耐えてくれていた歯が、この時期に一気に2つも割れました
〝はぁ。。。。もう手放すか。。。ストレスも、くいしばりも、我慢も。。。。〟
旅行の最後に、なんという強烈なデトックス
神経が露わになった超絶な痛みはもう要らない!と思って、ただ今せっせと治療中です
もぉー、よかったよ…最終日で…
おばあちゃん、ありがとう
日めくりなのに、私が行ったときはずっとこのままだった。
ありがたいメッセージ
鹿児島紀行、無事終了しました!
本日も読んでくださりありがとうございました
今回受け取らせて頂いた愛を、私なりに世の中にお返ししたいと思います。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします
イシュタルリバイブ 岡田ゆう子