夏の思い出のお話続編
前回は、夏の思い出の生みの親は「Kさん」という
NHK「ラジオ歌謡」番組の担当者が、
「夢と希望のある歌」の詩を、終戦後疎開先から
戻った江間章子先生に依頼し、依頼された江間
先生は、終戦間近に見た「夢心地」と感じた、
「尾瀬の湿原」を舞台に詩を完成させ、当時25歳の
新人だった中田喜直先生に曲を付す様依頼し、名曲
「夏の思い出」が、1949年昭和24年6/13㈪から
㈯までの1週間、夕方6時のニュースの前に流れる
NHK「ラジオ歌謡」で放送された曲・・・ということを
江間章子先生を中心にご紹介させて頂きました。
今回は、「中田喜直先生」を中心にご紹介致します♪
<夢見る若者達が生んだ夢の様な曲>
番組担当者「Kさん」が、完成した江間章子先生の詩に
曲を付す様依頼したのは、当時25歳の新人だった、
「中田喜直先生」でした。中田喜直先生は、戦時中、
東京音楽学校を繰上げ卒業で招集され、戦闘機乗り
として、東南アジアを転戦。終戦時は特攻隊員の要員
でした。終戦した事で、無事に復員できた中田先生は、
「一度は無くした未来を夢見る喜びを得た」
のです。
そして、その後間もなく、「Kさん」から、夢の様な詩に
曲を付す夢の様な依頼を受けたのです。中田先生は、
詩を見て、ピアノに向かうとスラスラと曲ができて、
喜んだそうです。
ところが!
そばで聞いていた中田喜直先生のお母様「こうさん」が、
「ちょっとお粗末なんじゃない」
・・・と口を出したのです。メロディーが軽すぎたのだ!!
確かにそうだと感じた中田喜直先生は大幅に曲を変えた。
それが、現在の「夏の思い出」のメロディー。
数ある中田喜直先生の作品の中で、お母様の指摘で書き
直したのはこの1作だけ。そして、この曲の印税はお母様に
渡し続けたそうでございます。
軽すぎたメロディーも聞いてみたいと思ってしまいますね。
さて、こうして誕生した「夏の思い出」を歌唱された方は
どなたでしょう?答えは当時26歳のジャズ歌手だった
石井好子さんでございます。
作曲者の中田喜直さんが「石井好子さんに歌ってほしい」と
頼まれたのです。東京音楽学校の1学年先輩だった石井好子
さんに憧れていた中田喜直先生はピアノ伴奏をされたそうです。
実際に放送された音源は残っているそうなのですが、残念ながら
レコード化はされず、その貴重な音源を聞く事が現時点で出来て
おりません。う~ん・・・残念。どうか、大切にNHK様、保存を切望
致します!!!
石井好子さんは、この歌で「私の人生に薄日が差した」と思った
そうで、その3年後、パリに渡り、シャンソン歌手になり夢を叶えた。
番組担当者の「Kさん」は、当時、江間先生や中田先生より10歳
位若い、大学を出たばかりの青年だったそうです。
敗戦直後の日本に「夢と希望のある歌」を届けようと、当時青年
だった「Kさん」が、疎開先から戻ったばかりの江間先生に作詩を
依頼。「夢心地」と感じた「尾瀬の湿原」を舞台にミズバショウを
素材にして書かれた詩に、特攻隊員の要員だったが復員でき、
再び夢を見る事が叶った新人の中田先生が作曲。その憧れの
存在で夢見る26歳の石井好子さんが歌唱し、大人気の名曲が
誕生した。そして、3年後パリに渡った石井好子さんは本当に
夢を叶えたのです。
何もない時代、夢だけはあった。夢を求めた若者達から、夢の
ような歌が生まれたのです。(伊藤千尋著心の歌よ!を参照)
何て素敵な事でしょう。
ちなみに、NHK「ラジオ歌謡」は、その年の評判の曲を10曲程
12月下旬に再放送していたそうですが、昭和24年に再放送
された曲の中には「夏の思い出」がありました。
大評判になった事で、「Kさん」が心配していた「見知らぬ土地」
だった「尾瀬」は、一気に人気の観光地となっていったのです。
今回はここまで😊 次回は詩の内容について江間先生ご本人が
解説されている内容を元にご紹介させて頂きます。お楽しみに😉