「椰子の実の歌詩は椰子の實」

 

国民歌謡曲「椰子の実」が発表(放送)されたのは、

1936(昭和11)年7月。その「椰子の実」の歌詩

となった、島崎藤村先生の詩「椰子の實」が発表

されたのは、曲誕生の35年前、明治時代

 

1901(明治34)年8月25日に春陽堂より刊行

された「落梅集(らくばいしゅう)」に収録。

ちなみに、藤村先生が小諸市に教員として赴任

した頃作られた「小諸成る古城のほとり」や

千曲川旅情のうた」なども収録されています。

 

「落梅集」で発表された「椰子の實」は、藤村先生の

親友、後の民俗学者:柳田國男氏が感動した

体験話がきっかけで創作されました。ちなみに、

やなぎ「」くにおさんです。濁点はつきません😊

柳田氏の肖像権が私には無いので、デッサンしました💦

ド素人の画ですがご了承願います🙇💦本物をご覧に

なりたいお方はどうぞネット検索して下さいませ😊

 

柳田氏は学生だった21差頃に身体を悪くし、夏の間

静養する事になりました。静養先として選んだのは、

「三河(愛知県) 渥美半島の突端 伊良湖岬」

柳田氏の知人(画家の宮川春汀氏)から、宮川氏の故郷

であるその土地は、素朴な民情に溢れていると聞き、

心魅かれていたからだそうです。

 

その「伊良湖岬」の近くにある「恋路ヶ浜」を散歩

していた時、3度、「椰子の實」が漂着していたのを発見

その時受けた(体験した)感動の心(お話)を、親友であり

東京の住居の近所に住んでいた島崎藤村先生に話し

伝えたのです。

こちらもド素人の画で申し訳ございませんが、撮影に行くまで

ご了承願います。一応、伊良湖岬の恋路ヶ浜の画です💦

 

柳田氏が体験時の感動を話した言葉

「南の海の果てから流れて来る。殊に椰子の流れて来るのは

 に嬉しかった。1つは壊れて流れてきたが、1つの方は

 そのまま完全な姿で流れ着いて来た」

 

静養を終え、東京に戻った時、近所に住んでいた親友の藤村氏に

直ぐその話をしたら、

 

「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」

 

・・・と、柳田氏の体験話に心を動かされた藤村先生は、この話を

元に創作し、最終的に1901(明治34)年「落梅集」にて発表され

たのでございます。発表された時の名前は本名の「島崎春樹」

 

詩が刊行されてから35年後の夏(7月9日)に曲が完成し、7/13

からNHKラジオ番組「国民歌謡」で1週間、人気歌手だった東海林

太郎氏の歌唱で放送され、「椰子の實」は大人気となり、多くの

国民に愛誦されるようになったそうです。

 

人気となってみんなに歌われている頃、柳田氏は、藤村先生から、

 

「あれを貰いましたよ」

 

・・・と言われたそうです。柳田氏著「海の上の道」の中で、

「そを取りて胸に当つれば 新たなり流離の愁ひ」という挙句などは、

もとより私の挙動でも感慨でもなかったうえに、

「海の日の沈むを見れば云々」の句を見ても、或いは詩人は今少し

西の方の、寂しい磯ばたに持っていきたいと思われたのかもしれない

が、ともかくこの偶然によって、些々(ささ)たる私の見聞もまた不朽の

ものになった」・・・と記述されています。

 

色々な解説書の中には、漂着した椰子の実と、藤村先生ご自身

の人生の旅(故郷を離れてさまよう憂い)を重ねて、「椰子の實」を

書いたと記述されているものもございますが、藤村先生ご本人が

そう解説されたかどうかは、今の私には判りかねます。

 

いずれにせよ、柳田氏の上記著の記述にもありますように、柳田氏

の体験話に心を動かされた詩人:島崎藤村先生が、その話をきっか

けに創作された、読み手・聞き手の想像力を搔き立てる素晴らしい

詩が誕生し、時を経て今の私たちの元へ語り掛けて下さるのです。

 

ロマンティックですね。感謝でございます。

 

最後に・・・。「実」と「實」のお話。

 

藤村先生が「實」と発表されたのは、当時の一般的な字だったから

なのかもしれませんが、先にご紹介させて頂いたように、實という

字は、「まこと」に、や、「じつ」に、などと表現する字でもあります。

柳田氏の言葉の中に、まさに、

「椰子の流れて来るのは實に嬉しかった」・・・とありますので、

椰子の実の実と、とっても嬉しかった柳田氏の想い「實」を重ねて

「椰子の實」とされたのではないかしら???・・・と想像する私です。

 

・・・想像するのは、自由ですので😃

 

次回は、「椰子の実」の曲の誕生のお話についてご紹介致します。

 

お楽しみに~🎵