「萬事閑居簡素不自由なし」
茶室風に(昭和初期の一般家屋よりも天井の高さが
一尺程低く)つくられた、元書斎とお部屋からのドウ
ダンツツジの様子。
4畳半のこのお部屋からは、「簡素」を「信条」とする
藤村先生の気配りが最も感じられるお部屋だと
言われており、ご自身も、
「萬事閑居簡素不自由なし」という言葉
を残されています。 また、
「書斎から離れる時は自分がこの世
を離れる時だ」とお話になる程、この書斎が
お気に入りだったそうでございます。
奥様の静子夫人も、「大磯の住居は50年に及ぶ
主人の書斎人としての生活の中で最も気に入ら
れたものだったろう」と述べられていらっしゃいます。
藤村先生は、1942(昭和17)年8月大磯町へ移住
後に「東宝の門」連載を開始。戦時下の厳しい時代
ではあったが、最期まで創作意欲を失うことは無く、
未完のままで終わった最後の作品「東宝の門」も、
永眠されるぎりぎりまで創作されていました。
居間兼寝室からの風景
1943(昭和18)年8/21最期の日
9時半ごろ、書斎から出て、広縁に立ってお庭を見て
いました。作品の内容について、静子夫人に具体的
に話しながら・・・。
「原稿を読んでしまったら、今日はお菓子を作ってくれ」
と話されました。言われた通り静子夫人が原稿を読ん
でいると、
「ひどい頭痛だ」と小さい声で呟き、身軽く立って茶棚
の常備薬を取りに行く途中、静子夫人に倒れ掛かり
「どうしたんだろうね」といつも通りの静かな声。
「気分も良くなってきた、頭痛もしないよ・・・目まいは
ちっともしない・・・涙を拭いて・・・」
「原稿が間に合うかね、そう50枚あるし・・・あすこで
第3章の骨は出ているしね・・・」
東の方の庭に目をやってじっと見ているかと思うと、
「涼しい風だね」
庭から眼を離さず気もちよさそうに涼風の過ぎるのを
感じているようだったそうです。そして、もう一度
「涼しい風だね」と・・・。
そのまま深い昏睡、意識は戻らず翌22日午前0時
35分に、大磯の地で永眠されました。
今でも毎年、藤村先生の命日8月22日には、墓所の
ある「地福寺」さんで、藤村先生を偲び、墓参・献花が
行われています。
7回忌を期して、有名な建築家:谷口吉郎博士による
設計で墓所に石碑が建てられました。
(墓石の高さ81cm、11cm角)
地福寺第19世和尚が2022(令和4)年2/21永眠。
103歳だったそうでございます。不勉強で和尚様が
他界される事を「〇化」と表現するようなのですが、
その「〇」が分かりませんでした。ご了承願います。
藤村先生が大磯に初来遊されるきっかけを作った、
翻訳家であり、小説家・随筆家でもあり、新潮社にも
お勤めになられていた、藤村先生の親友:菊池重三
郎氏の記述によると、上記広縁のパネルの近くに、
いつも籐製の小さな卓子と椅子が置いてあり、
卓子の上には、茶飲み茶碗と、一服できるように
煙草盆とパイプとシガレットケースが用意されて
いたそうです。
夏場には、すだれの陰に用意され、書斎から出てきた
藤村先生にとって、夏の日の憩いの場所であったそう。
こんな素敵なお庭(ご自身がこだわって手を入れた思い
入れのあるお庭)を愛でながらの休憩は気持ち良かった
でしょうね・・・。
寝室兼居間の南側からのお庭の風景