知識社会学を提唱したカール・マンハイム(Karl Mannheim 1893-1947)の概念に、思想の「存在被拘束性」があります。どのような思想も、それが立脚する社会や時代を含む「その思想の立場」による拘束性を被っている、という考え方です。これを乗り越えるためには、時間観・空間観を超えて、いわば「時空を超える鳥の眼」による鳥瞰図・俯瞰図で眺めて総体的に把握し、その全体像をなるべく客体的に理解することが肝要です。それをなすべき主体を、マンハイムは“Freischwebende Intelligenz”(自由に浮動する知識人)と呼びました。

   その意味では、本シリーズが観望している「共産主義思想」を生み出した、カール・マルクス(Karl Marx 1818-1883)による「科学的社会主義(マルクス主義)」も、そしてそれを実践しようとしたウラジーミル・イリイチ・レーニン(本名はウリヤノフ)の指導理論たる「マルクス・レーニン主義」も、それぞれその「思想」としての「時間(時代)と空間(国・地域)」の「存在被拘束性」からは免れ得ないのです。

 特に、マルクスの「科学的」と称する「科学観のイメージ」は、まぎれもなく十九世紀的な「決定論哲学」に支配されていた時代の「近代的科学」です。つまり、ニュートン力学に代表される「物理法則」などの実用性・効用性への信頼と自信から、『この宇宙の森羅万象は、絶対的な「科学的法則の束」によって成り立ち、決定され、運行している。従って全ての「科学的法則の束」を解明すれば、この宇宙・世界・社会のあらゆる動きを予測し制御することができる。』という、極めて楽観的かつ断定的な「決定論的世界観」を伴っていたのです。

   それは、ある方位角と仰角で、ある初速度の砲弾を発射すれば、それは力学法則の計算に基づいて、見事に遠方の的に命中させることができるというような、近代科学の実用的成果に裏打ちされていました。もちろん、それは今日も、人類が月や火星に宇宙船や探査機を送って、それを無事に地球に帰還させることができるという「科学技術」にも繋がっています。

 しかしその一方で、「ニュートン的な物理学世界像」を超える「量子物理学的世界像」が、二十世紀には登場し、「ニュートン的物理学体系」が作用するのは、平たく言えば、ある限られた範囲内や条件の下であって、「量子の世界」では、また別体系の物理法則が働いていることも解明されてきました。

   こうして物理学や「科学」自身も、当然に「十九世紀」よりは進歩し進化し、そして変化してきているのです。従って、その「十九世紀的物理学像」をモデルとした「十九世紀的な科学的社会主義」の理論も当然に、こうした時代変化の影響を受けるはずです。つまり「絶対不変の科学的真理」としての「科学的社会主義」なるものや、それを支える「史的唯物論」による「歴史の“必然的”発展段階法則」なるものも、見直されなければならない対象であることは、間違いないのです。

   マルクス・レーニン主義、共産主義の思想も、人間によって生み出されたものである以上、当然にその思想の「存在被拘束性」からは免れません。例えばマルクスが生きた時代に、ちょうど産業革命で発達した「紡績機械」のような「機械のモデル」が、まさに西欧近代の象徴でもありました。共産党組織論の標準教科書となったコミンテルンの組織部長ピアトニツキイーの『組織論』を示す「共産党の組織構成と組織原理を一目でわかるようにした見事な一枚の図」を見ると、まさに「十九世紀的な近代的機械モデル」がそこには見てとれます。


(立花隆著「日本共産党の研究 第一巻**」講談社文庫版、151頁より)

 

 特に戦前の旧制大学生など、当時のトップエリートであった知識人層には、この「時代的背景」(つまりは「存在被拘束性」)があって、「マルクス主義」は猖獗を極めました。戦前に共産党員が大挙して検挙された「三・一五事件」(昭和3(1928)年3月15日)と「四・一六事件」(昭和4(1929)年4月16日)の逮捕者の構成について、立花隆著「日本共産党の研究 第一巻**」1983年刊講談社文庫版には、次のように記述されています。(*裕鴻註記・補説)

・・・結局、共産党は、旧福本(*和夫)イズム派が、そっくりそのまま二七年テーゼ(*モスクワのコミンテルンからの昭和2(1927)年の指令)に改宗しただけの集団として再出発した。だから、党の組織実体の性格は、相変らず福本イズム時代の性格を色濃く残していた。つまりインテリ優位の集団、運動現場での指導にたけている人間よりは、理屈をこねまわす人間のほうが偉くなれる集団という性格である。

 三・一五、四・一六両事件の関係者六百五十五名について、司法書記官・池田克がなした身上調査によると、

  知識階級   百七十七名(二七%)

  労働者農民 四百七十八名(七三%)

 一般犯罪におけるインテリの比率は(*当時) ○・二パーセントであるから、これは異常に高いインテリ率だと池田は驚きを表明している。ここで知識階級というのは高等教育を受けた者を意味するが、このうち東京帝大卒が三十二名、京都帝大卒が二十四名もあり、両者をあわせてインテリの三二パーセントを占める。戦前の両帝大卒業生が社会の超エリートであったことを考えれば、これはエリート含有率が極め付きで高かった集団といえる。

 現在(*1976年頃)の(*日本共産)党員については、全党員の学歴別統計などというものはどこにもないから、指導部だけをとってみる。中央委員百二十二名(うち五名については学歴不明)をとってみると、高等教育を受けた者が四十九名で四〇パーセントを占める(常任幹部会だと五七パーセント)。うち、東大、京大卒は十七名もいる。共産党は自民党に次いで指導部に東大卒業生が多い。・・・(**前掲書159~160頁)

 

 そもそも戦前の日本では、旧制高校や旧制大学などの高等教育機関に進めたのが大体同年代の三%くらいだったという話ですから、その中での高い比率というのは、知識人層として相当高い割合という感度です。どうしてこのような傾向が生じたのか、今度は、新潮文庫版の兵本達吉著「日本共産党の戦後秘史***」(平成20(2008)年、新潮社刊)の、次の記述を見てみましょう。

・・・日本の大学生、とりわけマルクス主義を信奉する学生は((*京大)学生時代の筆者(*兵本達吉氏)もそうだったが)、日本の社会の全体的なあり方に批判的であった。この自分たちが生きている時代の社会を「資本主義」としてとらえ、この現状を覆(*くつが)えそうとした。そして、この現状を分析し、転覆の方法を教えるものとして、マルクス主義にまさるもの、それに取って代わるものはなかった。

 さらに、もっと重要なこととして、我が国には、残念ながら、カントもヘーゲルもいなかったし、アダム・スミスもケネーもリカードもいなかった。さらには、ロバート・オーエンもサン・シモンも、フーリエもいなかった。ところが、マルクス主義を勉強すると、これらの人たちの学説が全て入っていて、哲学も、歴史学も、経済学も、社会学も皆ワンセットで学ぶことができたのである。マルクス主義は、全体として社会科学そのものとして受けとめられた。我が国の勉強の好きな大学生が、とくに革命を目指していたわけではないのにマルクス主義に引きつけられた最大の理由は、まさにここにある。

 (*フルシチョフによる)「スターリン批判」は、ソ連の全体主義的な国家体制とそれが不可避的に生み出す悲劇を暴き出した。そして、「理想として、頭のなかに描き出された社会主義」と「実際の、現実に存在する社会主義」との間には、相当の距離があることが次第にソ連の実物教育を通して明らかになってきた。

 「スターリン批判」を知り、ソ連の強制収容所の現実を知った(*戦後の)日本の青年学生は、マルクス主義の本質に目覚め、マルクス主義から完全に撤退すべきであったのである。嗚呼、悲しいかな! 当時の日本の学生の知的水準と彼らが入手し得た情報では、マルクス主義からの撤退などは、思いもよらなかった。ましてや、一九九〇(平成二)年前後の「共産主義の崩壊」などは彼らの想像も及ばないことであった。

・・・(***同上書449~450頁)

 

 こうした旧制大学、特に東京帝大や京都帝大における戦前のマルクス主義や大学生の状況について、1995年刊中公新書「軍国日本の興亡 日清戦争から日中戦争へ」を本体に、「軍国日本に生きる 猪木正道回顧録」(1998年「外交フォーラム」)を付録として、2021年に中公文庫から再刊された、猪木正道著「軍国日本の興亡****」より、以下の記述を見たいと思います。

   猪木正道先生は、1931 (昭和6) 年に第三高等学校文科乙類(*旧制三高、戦後京都大学教養部を経て現在は総合人間学部)に入学し三年間学んだあと、1934 (昭和9) 年に東京帝国大学経済学部に進学されました。京都帝大は前年の「滝川事件」(*言論弾圧の対象が共産主義思想から、自由主義的な言論にまで拡大されたといわれる事件)の関係で混乱していたため、東京帝大に進学されたようです。旧制大学入学当時の様子を同書****の「付録」から少し読んでみましょう。

・・・東京帝大経済学部は、低能教授と噂される先生が多いのにがっかりした。しかし救いもあった。1934 (*昭和9) 年4月中旬に行なわれた新入生歓迎の講演会で、河合栄治郎教授と矢内原忠雄教授との熱弁に接したことである。河合教授は大変な雄弁である上、内容も感動的だったので、私たちはたちまち河合党になってしまった。講演を聴く新入生の中に、涙を流している者がたくさんいたことは印象的だった。

 二、三日後、河合教授の「日本におけるマルクス主義の功罪」というテーマでの社会政策開講の辞を聴きに行った。

 講義の内容は、大きく分けて三つの部分からなっていた。

   第一は、社会科学の伝統を欠く日本で、マルクス主義は社会科学全般の代役を務めたという点である。

   第二は、マルクス主義が社会科学の全分野を独占的に制圧した結果、日本の社会科学の健全な発展は不可能に近くなったという点である。

   そして第三点は、多数の前途有為な若い学生が、マルクス主義という麻薬的教義のとりことなった結果、共産主義運動の実践に乗りだし、悲惨な境遇に転落したという事実である。

 私(*猪木先生)は三高生活の末期に、図書館から『新評論(ノイエ・ルントシャウ)』というドイツの雑誌を借り出して、ドイツ人のソ連紀行文を読んだ。ちょうど第二次五カ年計画に突入した頃のソ連の国民生活が活写されていた。“社会主義競争”というスローガンを採り入れ、(*スターリン支配下の)ソ連では極端な出来高払いの賃銀制が導入されていた。そういう具体的なソ連像は日本ではほとんど紹介されておらず、ソ連を地上の天国のようにあがめるマルクス主義者が多かった。

 ソ連の実像について予備知識を持っていた私には、河合教授の社会政策“開講の辞”は大変理解しやすかった。(*中略) こうして東京帝大経済学部の一年生の頃、私は自分の思想的立場にいくらか自信を持てた。二年生になって演習に入ることが許されるようになれば、躊躇することなく河合教授の演習に参加しようと私は決意を固めた。・・・(****同書318~319頁)

 

 その後、この念願通り、河合栄治郎教授に師事することになった猪木先生は、二年生の終わりに二・二六事件に遭遇します。その時の恩師河合先生の様子を、同じく同書****の「付録」から見てみましょう。

・・・1936(*昭和11)年2月26日、陸軍第一師団の歩兵第一連隊と第三連隊の兵1470余名を率いて、皇道派青年将校は、岡田啓介首相(*海軍OB)、高橋是清蔵相(*日銀OB)、斎藤実内大臣(*海軍OB)、渡辺錠太郎教育総監(*陸軍現役)、鈴木貫太郎侍従長(*海軍OB)らを襲撃した。幸い岡田首相と鈴木侍従長は奇跡的に助かったが、このクーデターは、軍国日本の暴走を決定的にした。

 たしかに犯人の皇道派青年将校たちは銃殺され、陸軍の要職から皇道派は一掃されたが、皇道派と対立していた統制派が、このクーデターがもたらした恐怖心を利用して、悪行を働いた。すなわち中国(*蔣介石国民政府)への軍事的圧力を強化し、ヒトラー・ドイツとの防共協定を結ぶなど1945(昭和20)年のポツダム宣言受諾まで続いた自爆戦争への道は、この段階でほぼ決定されたと言っても過言ではない。

 二・二六事件が起こった時、私(*猪木先生)はほとんど絶望的になっていた。ところが帝都(*東京)の心臓部を占拠していた反乱軍が降伏した直後に発行された『帝国大学新聞』に、河合栄治郎教授は二・二六事件を真っ向から批判する一文を発表された。

 その頃まで、東京帝大では一部の河合党を除いて、多くの学生は河合教授を反動教授、ご用学者と悪罵していた。マルクス主義者でなくても、マルクス主義に好意的な発言をする教授は、進歩的と評価された。

 事件直後の3月9日付の『帝国大学新聞』を、私は今日まで62年間大切に保管してきた。河合教授の「二・二六事件の批判」の全文をここに引用したいのだが、あまりに大きい紙幅を要するので、ごく一部の、もっとも重要と思われる部分を引用するにとどめたい(当時(*内務省特高警察による)検閲が厳しかったから伏せ字が多い。手を加えないでそのままにした。仮名遣いだけは改めた)。(*尚、伏せ字部分は原著では「……力(註 軍事力)」となっていますが、本稿では「軍事力」という表記とします。以下、河合栄治郎教授の批判文:)

   「ファッシストの何よりも非なるは、一部少数のものが軍事力を行使して、国民多数の意志を蹂躙するに在る。国家に対する忠愛の熱情と国政に対する識見とに於て、生死を賭して所信を敢行する勇気とに於て、彼等(*蹶起将校)のみが決して独占的の所有者ではない。……中略……

 彼等の吾々と異なる所は、唯彼等が軍事力を所有し、吾々が之を所有せざることのみに在る。だが偶然にも軍事力を所有することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠となるか。吾々に代って社会の安全を保持する為に、一部少数のものは、武器を持つことを許され、その故に吾々は法規によって武器を所持することを禁止されている。然るに吾々が晏如として眠れる間に、武器を持つことそのことの故のみで、吾々多数の意志は無の如くに踏付けられるならば、先ず公平なる軍事力を出発点として、吾々の勝敗を決せしめるに如くはない。……中略……

 此の時に当り、往々にして知識階級の囁くを聞く。此の軍事力の前に、いかに吾々の無力なることよと。だがこの無力感の中には、暗に暴力賛美の危険なる心理が潜んでいる。そしてこれこそファッシズムを醸成する温床である。暴力は一時世を支配しようとも、暴力自体の自壊作用によりて瓦解する。眞理は一度地に塗れようとも、神の永遠の時は眞理のものである。この信念こそ吾々が確守すべき武器であり、之あるによって始めて吾々は暴力の前に屹然として亭立しうるのである。」

 この河合教授の文字どおり生命がけの一文を読んだ時の興奮と感激とは、その後60余年間、私を支えてきたと言っても過言ではない。この日本型ファシズムに対する教授の宣戦布告は、右傾化した日本陸軍の首脳や中堅のもっとも痛いところ衝いたからこそ、三年後に先生は東京帝大を追われ、出版法違反事件の被告となり、悪戦苦闘の末、五年後に心臓発作で亡くなる。

 二・二六事件に対する河合教授の体当たり的な批判以来、私は先生に対する敬愛の念をますます深くした。当時日本の知識人の中に、誰一人としてあの(*二・二六)事件を正面から弾劾した人はいなかった。当時の東京帝大経済学部教授会は、河合教授を中心とする自由主義派と、土方成美教授が率いる右派と、大内兵衛教授を取り巻く左派とに三分されていた。そして残念なことには、学生たちまで、所属する演習の指導教授の派閥に属していると見られる傾向があった。私など河合派とみなされ、とくに左派の学生たちから敵視されているように感じた。彼らがあの『帝国大学新聞』の一文を読んで、「河合さんを見直した」と言うのを聞いて、私は喜ぶと同時に彼らの不明を嘆いた。・・・(****同書325~328頁)

 因みに、この二・二六事件については、本ブログの別シリーズ「大東亜戦争と日本」の第(14)~(18)回及び(64)~(70)回を、ぜひご参照ください。



 河合栄治郎先生は、戦前日本においての英国流民主主義の自由主義者にして良識ある理想主義者でした。今日では「オールド・リベラリスト」と呼ばれていますが、昨今の「新自由主義(ネオ・リベラリスト)」などとは全く異なる、「自由と自律」を堅持する教養深き紳士でした。まさに「正統派のリベラリスト」です。この意味からも、共産党と選挙協力するような立憲民主党を「リベラル」とは決して呼んでほしくないのです。共産主義と自由主義は、その根底において、対極的な思想体系にあると、わたくしは考えているからです。

   むしろ、上記の「二・二六事件」を引き起こした帝國陸軍の蹶起将校たちのクーデターの考え方と、共産党の武装暴力革命の方が、はるかに似ている面が多くあるのです。詳しくは、2022-01-03付弊ブログ記事「現代の右翼は庶民の貧窮を、左翼は共産圏の人権をもっと憂うべきでは」をご参照ください。


   かつて1976年に大学に入学した私は、最初の「政治学」の講義で、当時慶應義塾大学法学部長でもあった堀江湛教授から教えられた、次の「政治学の諺」を忘れることができません。

・・・

右の端を歩く者は左側からしか殴られない。

左の端を歩く者も右側からしか殴られない。

しかし真ん中を歩く者は両側から殴られる。

・・・

 決して、その時の状況における「相対的な」「ど真ん中」に位置することが、政治的な「正解」でも「正道」でもないと思います。しかし、「極端に左側」とか、「極端に右側」が、恐らく「正解」でも「正道」でもないであろうことは、人類の歴史の歩みを想起し総覧すれば、ある程度推察できることです。多分、ある時はやや左寄りであったり、また別の時にはやや右寄りであったりしながら、あたかも山脈の尾根のような「最も高き」を辿る道を、一歩一歩踏み外さずに歩いてゆくことが、「正解・正道」の道であるように思います。左・右どちらかに極端に片寄ると、そのままそっち側の崖から滑落してしまうかもしれないのです。

 閑話休題、1927 (昭和2) 年に、スターリンの指導するモスクワのコミンテルン本部で、「二七年テーゼ」という「戦闘的」な指令を押し付けられた当時の日本共産党の指導部は、1925 (大正14) 年に「治安維持法」と抱き合わせの形で制定された「普通選挙法」(25歳以上の男子に投票権)に基づく、第一回普通選挙(1928 (昭和3) 年2月)で、「共産党が結成された」ことを大衆に知らせ、選挙にかこつけたビラやパンフレットを撒いて、その存在をアピールします。もちろん治安維持法によって、君主制(天皇制)を倒そうとする共産党は、当時すでに「非合法組織」ですから、あくまでも地下活動としてこれを行なったのです。

   その当時の日本共産党の主張を少し、立花隆著「日本共産党の研究 第一巻**」から拾ってみましょう。

・・・第一回普選当時、大衆に共産党とはどういうものかを説明するために『赤旗パンフレット』が発刊された。その第一輯「日本共産党の組織と政策及革命の展望」は、以上の諸点を平易に解説して次のようにいう。

 「共産党は立派な軍隊だ。プロレタリアの軍隊である。日本共産党は今日即時に武装しなければならぬ。武器と軍隊とを持たずして革命は成就しない。革命を談ずることは武器を持つことを意味するのだ。

 共産党は政党である。然しこの政党は議会に議席を持つことを本意とする政党ではなくて武装した軍隊であると云ふことが云える」

 「日本共産党は今日の資本主義の諸関係を科学的に観察して来るべき革命の性質をブルジョア革命の徹底的遂行にあると規定してゐる。

 そこでこのブルジョア革命と云ふ事を説明するが、この革命は先づ政治的には天皇を叩きつぶすこと。即ち君主制を撤廃して最も民主的な共和国を作ることである。

 今日党の政策は凡てこの革命の為めの政策である。ところがこの政策は諸君が実地に既に経験しているであらう如く単なるストライキか単なる小作争議では実現し得られない。

 この政策を実現化するには、労働者農民の武装蜂起、一揆暴動によらなければダメである」

 「天皇を叩きつぶして議会を占領すると云ふことは、繰り返し云ふまでもなく社会民主主義者のやり方と異(*ちが)ふのだ。即ち議会に多数党をとつてやると云ふのでなく武器をとつて議会の外から議会を強圧して行くことである。即ち暴動と内乱によつてである。

 そこでこの暴動と内乱は必然に労働者本来の政治形態、ソビエット(*プロレタリア独裁的国家機構)を生むのである。

 諸君も記憶してゐるであらう。あの関東大震災の時に一時無政府状態が現出した。

 その時に民衆が自分自らの組織即ち自警団と云ふものを作った。

 あの式で必ずソビエットが生れる。

 関東大震災の時に出来た自警団と云ふものはあれは決して労働者のものではなかった。資本家のものであつた。

 然し内乱と混乱が続くと、そして支配階級の力が及ばなくなると必ず民衆は自らの組織を作るものだ。

 そしてこの場合には(今説明しているやうな場合には)本当のソビエットが生れるのだ」

 「そしてブルジョア議会を根底から破壊してしまふ、さうした時に初めて『プロレタリア独裁』が樹立されるのである。

 だから日本に於ては来るべきブルジョア革命の徹底的遂行は、労働者農民の民主的独裁の樹立であり、それはプロレタリア独裁へ移るスグ手前 即ち、その前夜をつくるのだ」

「だが彼等(社会民主主義者)は必らず労働者農民の武装的暴動、革命によらずしてそれを実現しようと大衆に訴へるであらう。

 先づ労働者と農民は議会に絶対多数を獲得しさへすれば、労働者と農民の政府が作れるのだから、その政府の下に於て以上の政策を実現しようと約束するであらう。

 一般におくれた労働者はその甘言にまき込まれないとも限らない、否まき込まれる危険性が極めて多いのである。

 そこで我々は第一にこの社会民主主義者と徹底的に戦ひ、彼等のバケの皮を事毎にひんむいて、彼等の約束がウソであること、議会の多数党をとつて労農の政府をつくつても、それだけでは決して以上の政府は実現されるものでないことを、精力的に宣伝することが必要である」

 

 要約すれば、革命のプロセスは、武装した革命党の指導する暴動と内乱→ 無政府状態→ 民衆の自主的組織(ソビエト)づくりと二重権力状態(ソビエトと議会)→ 議会制度破壊→ ソビエトのみのプロレタリア独裁、という順序で運ぶことになる。(*まさにロシア革命における二月革命と十月革命の推移に相似)

 戦前の(*日本共産)党員たちはすべて、ここに示されているように、革命イコール武装暴動と考えるか否かを、共産党員と社会民主主義者を区別する主要なメルクマール(*指標)の一つとしていたのである。アンチ議会主義は、共産党の最も基本的な主張の一つだった。

 以上が、戦前の共産党員たち(宮本(*顕治)委員長を含む現在(*1976年当時)の指導的幹部のほとんどがそうだった)が共通してもっていた、革命のイメージである。・・・(**前掲書167~169頁)

 

・・・当時の共産党の議会観を、現在(*1976年当時)の共産党の議会観とくらべてみると面白い。「総選挙方針案」で、「共産党の議会参加の原則」を述べているところを要約してみる(ちなみに、これはコミンテルンの「共産党の議会制度にかんする指導原則」によったもので、当時の世界の共産主義者の共通認識だった)。

 「あらゆる階級闘争は政治闘争であり、結局権力の闘争である。プロレタリアートはブルジョア議会を顚覆し自己の権力を確立するためには、ブルジョア国家機構をそのまま継承することはできない、それを破壊して新しいプロレタリア的国家機構(すなわち、ソビエット)を作らなければならない。

 共産党は改良的法律を獲得するために議会に参加するのではなく、ブルジョア国家機関の中心たる議会を内部から破壊するために参加する。

 階級闘争の重点は議会にあるのではない。ブルジョアに対するプロレタリアートの最も根本的闘争は先づ第一に大衆闘争である。大衆闘争はその最高形態は内乱である。議会内における闘争は階級闘争の根本問題を解決することが出来ない。

 共産党は大衆闘争によつてブルジョア政権を奪取することを目的とする。大衆闘争は内乱へ発展させねばならぬ。この大衆闘争の発展に対して、一つの補助的支点たり得るものは議会である。共産党の議会参加の一つの意義はこの補助的支点を占領することにもある。

 社会民主主義者は議会をもつて国民の意志の表現と考へてゐる。だが『国民』と云ふ抽象的なものはない。有るものはプロレタリアート対ブルジョアの階級対立である。社会民主主義者は議会に依る改良を通じてプロレタリアートが支配階級に上り得ると空想してゐる。だがプロレタリアートは大衆闘争を通じての、革命によってのみ政治権力を把握することが出来る。社会民主主義者は結局ブルジョア国家の擁護者に他ならぬ。共産党は徹底的に彼等と対立する」

 古典的なマルクス・レーニン主義は、議会と選挙をこうしたものとしてとらえる。

 つまり議会制度とは破壊の対象であって、参加の対象ではない。共産主義者は議会には参加するが、それは議会制度を破壊するためなのである。

 この考えの前提には、議会制度は、ブルジョア階級が政治支配をつらぬくための機構であるという認識がある。したがって、議会を通じてプロレタリアートが政権を握ることは不可能で、暴力革命が唯一の道と判断する。そして、政権を握った後では、議会制度を存続させてはいけないとする。国家の機構は、支配階級が変ったら、別のものに変えられるべきだからだ。そしてそれは、ソビエト制度によるプロレタリア独裁だというのだ。

 以上の二点を否定し、議会を通じて社会制度を改良改革していくという主張をするものは、社会民主主義者と呼ばれ、

   「口と筆の上でだけ革命的なことをいひ、実際には労働者農民を裏切る、資本家階級の手先」とののしられた。後には、社会民主主義者は“社会ファシスト”とまでいわれ、共産党の激烈な攻撃の対象となる。いまにいたるも社共(*社会党と共産党)の抜きがたい対立があるのは、この時代までさかのぼる両者の相克があるからだ。・・・(**前掲書165~166頁)

 

 そもそも、共産主義、マルクス・レーニン主義は、根底的に議会制民主主義に基づく社会民主主義とは相容れないのです。それは「民主集中制」という「プロレタリア独裁」の国家機構(ソビエト)の統治・支配方式が、その本領であって、仮に「議会」に共産党が政党として参加するとしても、本来のスタンスは、「ブルジョア国家機関の中心たる議会を内部から破壊するために参加する」ものなのです。

 もう少し、今は亡き「知の巨人」、立花隆氏(東大仏文科卒)による「日本共産党の研究**」に耳を傾けたいと存じます。

・・・日本共産党の性格を考える上で、スターリンの影響を知っておくことは、きわめて重要である。なぜなら、日本共産党はその揺籃期において、思想的にも、党の体質においても、あまりに色濃くスターリン主義に染めぬかれてしまったために、いまにいたるもスターリン主義の母斑をつけたままの組織であるからだ。

 一九二四 (*大正13) 年にレーニンが死んだ後、スターリンが、ジノヴィエフ、カーメネフと組んでトロッキーに対抗したことはすでに述べた。両者の主たる争点の一つは、党内民主主義の問題にあった。党内での広範な言論の自由を求めるトロッキーに対し、スターリンたちは、(*共産)党は討論クラブではないと反論した。そして、帝国主義の狼に取り囲まれている中で、あらゆる問題をオープンに討論することは、手の内を敵の前にさらけ出すことになるからできないとした。また、党組織が官僚主義化し、上から指導され、規律で縛られながら動かされていく現状をトロッキーが批判し、下部の自由なる発意の総和で下から動いていく党組織を主張したのに対しては、共産党は一枚岩の組織でなければならぬとの反論が加えられた。

 このあたり、いまの共産党に対する一般の批判と、それに対する共産党の答え方にそっくりであることに気づかれよう。

 日本共産党は、(*1976年)現在、これまでにないほどの巨大な路線転換をすすめている。暴力革命を捨てて、議会主義に徹し、プロレタリア独裁を捨てて、複数政党も政権交代も認め、マルクス・レーニン主義の原則固持の立場を捨てて、科学的社会主義の名における公然たる修正主義を標榜しはじめている。いまや、共産党の唱える革命戦略は、かつての社会民主主義者のそれと本質的には変りがないところまできている。

 かつて(*上記の通り)、共産党は社会民主主義者を口をきわめて罵倒し、これを第一級の政敵としていた。それは社会民主主義が、平和革命を唱え、議会主義を取り、プロレタリア独裁を排して民主主義を主張し、マルクス・レーニン主義を公然と修正したがゆえであった。いま(*1976年当時)の共産党は、かつて自分たちが排撃していたこれらの主張を全部みずから取り入れて、すました顔をしているわけである。

 その思想的節度のなさ、プリンシプルの欠如もさることながら、いったいこうなると、共産党の共産党たる所以はどこにあるのか、共産党のアイデンティティはどこに求められるのかという疑問が生じてくる。

・・・(**前掲書328~329頁)

 日本共産党が、果たして「羊の皮を被ったオオカミ」であるのか否か、その組織文化の遺伝子にレーニンとスターリンのDNAを隠し持っているのかどうか、引き続き次回も検討して参りたいと存じます。