世の中に完璧な人間が存在するでしょうか。もちろん立派な人は存在するでしょう。しかし、欠点の少ない人はいても、欠点の全くない完全無欠の完璧な人間がいるとは思えません。それはもはや人間というよりも「神」です。

 

 ところが、西欧近代が生み出した「理性信仰」は、その不完全な人間の理性をあたかも「神」として扱ったところに、重篤な「陥穽(落とし穴)」があったのではないでしょうか。わたくしにはそう思えてなりません。もし仮に「限りなく神に近づいた人間」がいたとしても、それはあたかも数学的な近似値が真の値とは言えないことに相似しています。

   3.141592653589…は、円周率πの近似値ではあっても、「π」そのものではないのです。実用上はその近似値で計算もできるし、物も作ることはできるでしょう。しかし真実は、あくまで近似値にすぎず、絶対的な円周率では決してないのです。その意味では、表現形式としての精密なデジタル表現は、例えそれがどんなに高精度であったとしても、厳密な意味では本質的に決してアナログ表現には追いつけないのです。まさに「似て非なるもの」にしか、デジタルはなれないのです。人間の本質、そして生命の本質は、ある意味でやはりアナログ形態であり、人間は「完璧には割り切れない存在」なのです。

 

 その西欧近代に基礎を持つ「近代的思想」は、この「陥穽」からの影響を免れません。ところが、あくまでもそれを「完璧である」と扱おうとすると、そこには結局、何らかの虚偽が生まれます。同様に「我々は決して間違っていない」という「無謬性の主張」にも、それは連なってゆくのです。

 

 共産主義思想は、あくまで十九世紀に誕生した「西欧近代思想」の一つです。その意味で、本シリーズ第(4)回で取り上げた、西洋近代が犯した思想上の陥穽でもある「人間の理性への過大な信仰」によることは避けるべきだという佐藤優氏の警告は、あらためて真摯に受け止めるべきであると感じます。

 

 そしてわたくしが感じるのは、日本共産党が何故、立花隆氏の「研究」に罵倒を浴びせたのかということの、本質的な理由は、まさにこの西欧近代的理性信仰を基盤とした「無謬性の論理」が強く働いているからではないかと思われることです。つまり、彼らの自己認識として、「党は完璧」でなければならず、従って「如何なる誤謬」もあってはならず、「党としての無謬性」を維持し続けなければならないからなのではないか、と考えられるのです。

   そして、具体的にそれは1970年代から1980年代当初の当時、共産党を率いていた宮本顕治氏の「誤謬」が決して「あってはならないこと」であるからだったのではないでしょうか。

   それが故に本シリーズ前回で見たモスクワの「東方勤労者共産大学(クートヴェ)」を昭和3 (1928) 年に卒業・帰国して以来、戦前から半世紀に亘り腹心として宮本顕治氏を支え、日本共産党副委員長まで務めていた身内の袴田里見氏を「規律違反により除名処分」にまでしなければならなかったのではないでしょうか。その「規律違反」とは、共産党規約の「党内の問題を党外に持ち出さない」という基本原則を破ったというのが理由とのことです。その根源は、戦前の「リンチ共産党事件(日本共産党スパイ査問事件)」にあるのです。

 

 また立花隆氏を、日本共産党が執拗に罵倒し攻撃したのも、この党内リンチ殺人事件の主犯とされるのが他ならぬ宮本顕治氏(*当時日本共産党中央委員会議長)であり、この事件を調査・研究して公表した立花氏の立論を、全面的に否定しなければならなかったことに起因していると思われます。そして宮本顕治氏のご長男の家庭教師を務めていた現在の志位和夫委員長もまた、このリンチ殺人の事件は全面的に否定せざるを得ないのでしょう。いくらどんなに大きな理由があったとしても、それ故に「人を殺してもよい」ということにはならないのは、戦前も戦後も刑法の基本としては変わらないのです。

 ところが、現在に至るまで、日本共産党は、これを「リンチ殺人事件」とは決して認めず、「スパイを査問中の、被害者の特異体質による事故死」であると主張し続けているのです。つまり決して「殺した」のではなく「事故死(無過失の致死)」であるという主張です。しかし当時のアジトの床下に埋められていた遺体が発見されている以上、少なくとも「遺体遺棄」には相当します。

 

   まずは、立花隆著「日本共産党の研究 第一巻**」1983年刊、講談社文庫版から、この事件に関する部分を少し紐解いてみましょう。(*裕鴻註記)

・・・リンチ共産党事件

 戦前の共産党史は、まるで運命の糸に導かれるように、党壊滅というクライマックスに向かって急テンポで進展していく壮大なドラマである。戦後の共産党史は、これまた壮大なドラマであるが、これは戦前篇の続篇であって、戦後篇だけ見ている人には、映画館に途中からはいった人のように、ことのなりゆきがどうにもよくわからない趣向になっている。ましてや戦後篇の一シーンでしかない現在進行中の舞台面を見ただけでは何もわからない。これが、私(*立花隆氏)がここで、現在の共産党の分析からはじまって、党成立の時点までさかのぼっての分析をはじめた理由である。(*中略)

 共産党史という戦前、戦後を通じてこの一大ドラマを見事なまでに劇的なものにしているものは、なんといっても、戦前篇のクライマックス、党壊滅という壮絶な場面を主役として演じた宮本顕治その人が、共産党のレーニン主義からの大転回という興味あふれる(果たしてそれがほんとの大転回なのかよくわからないところが、またおもしろい)現在の場面でも主役として登場していることだ。このへんのおもしろさを理解していただくためには、もう少し戦前の党史に付きあっていただかねばならない。

 宮本顕治が戦前の破局の場の主人公だったというのは、当時の新聞の表現を使えば、宮本が“首魁”となって起こした“リンチ共産党事件”が、最後的に党を壊滅させてしまったからである。

 リンチ共産党事件というのは、宮本が中央委員(事実上の委員長格だった)をしていた最後の党中央が、党内のスパイを摘発するために一連の査問をおこない、その結果、小畑達夫という中央委員だった男を死なせてしまった事件をいう。

   この事件は、党の内外にきわめて深刻な波紋を呼び起こした。このとき摘発された二人のスパイが中央委員だったがために、党中央は下部から信頼を失ってしまう(なにしろ六人の党中央のうち二人、つまり三分の一がスパイだったというのだ)。そして、党内は、中央委員にまでスパイがはいっているなら、誰がスパイかわからないというので、互いに疑心暗鬼状態となってしまう。

   そしてこの事件を契機としてなされた七百三十六名に及ぶ大量検挙とあいまって、党組織は解体し、壊滅してしまうのである。それとともに、周辺で党を支えるとともに、党員の貯水池となっていたシンパ層がこれを契機として離反していき、党再建のすべもなくなってしまう。(*中略)

   こうして、文字どおりの破局的クライマックスとしてリンチ共産党事件はあった。それが世に与えた衝撃は、連合赤軍のリンチ事件*に優るとも劣らぬものがあったのである。(*連合赤軍山岳ベース事件については、本シリーズ第(3)回の記事をご参照。)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12770906466.html

   こう書くと、共産党筋からの反撥を招きそうである。リンチ共産党事件が、現委員長(*当時の宮本委員長の意)が“首魁”となって起こした事件であるため、共産党はこの事件の扱いにきわめて神経質で、これまで、この事件を連合赤軍事件に比してマスコミが不用意、不正確に書いたり、あるいは“リンチ”ということばを用いると、執拗に抗議し訂正を申し入れている。

   共産党の見解では、この事件は“リンチ”でも“殺人”でもなく、単なる査問であり、死亡した小畑は、査問中に特異体質のためショック死しただけで、査問と小畑の死亡の間には直接の因果関係はなく、単なる時間の一致関係があったにすぎないとされているからである。

   連合赤軍事件*が、党派内での革命的自覚が足りない者に対する“総括”という形で起きた殺人事件であったのに対し、リンチ共産党事件は、スパイ摘発のための“査問”で起きた死であるという、両事件の性格の相違は明白である。しかし、私(*立花隆氏)があえて前述のように書いた、その理由の第一は、“世に与えた衝撃”を問題にするとき、それは“世に伝えられた事実”によって起きるのであって、“現実に生起した事実”によって起きるのではないからである。“世に伝えられた事実”のほうはどうであったかは、当時の新聞を見ればわかる。(*中略) そのおどろおどろしさは、連合赤軍事件を伝えたときの新聞以上のものがある。

   そして、連合赤軍は社会から孤立した集団だったが、当時の共産党は組織は小さかったとはいえ、唯一の共産主義革命運動体として、その保持していた社会的影響力は、連合赤軍などとはくらべものにならないほど大きかったということも、事件の与えた衝撃の大きさをはかる上で考えに入れなければならないことだ。

   第二の理由は、以上のような新聞報道によって、“世に伝えられた事実”のほうには、たしかに共産党が主張するように、“当局の大々的なデマ宣伝”という一面があったことは争えないが、他方、それが当局の百パーセントの事実捏造かというと、決してそうではなく、やはり凄惨なリンチの事実と、小畑殺害(殺意ある殺人としてではなく障害致死行為として)の事実は、資料にてらしてみると、あったと判断せざるをえないからである。資料にてらしてみるかぎり、むしろ共産党の、

「公判においても、小畑の死亡が特異体質によるショック死であることが法医学的にも指摘され、警察当局のデマ宣伝はうちやぶられた」(『日本共産党の五十年』)

という主張のほうに無理があるとみなさざるをえない。(*中略)

   この点、かねてから私も疑問をもっていた。しかし、最近この二つの資料(*大審院の火災により焼失したという宮本の裁判記録と、小畑の死因に関して提出された古畑鑑定書)を目にすることができ、他の資料とあわせて前述のような判断を下すにいたった。この問題は、非常にデリケートなものであるから、その論拠を示すべきだと考えるが、ただし、それにはかなりの議論をつみ重ねなければならず、またその議論自体は、この一文の本筋とは離れてしまうので、下巻末(本文庫版第三巻)に資料とともに付録として記しておく。・・・(前掲書**72~76頁より部分抜粋)

 

   こうして、この「共産党リンチ事件」については、立花隆著「日本共産党の研究」(1983年刊講談社文庫、第三巻***)で、詳しくこれらの資料とともに記述されているのです。以前本シリーズ第(6)回でもご紹介しましたが、ここではその第三巻***の目次だけ、おさらいしておきます。

〔三〕巻の目次

第十六章 リンチ共産党事件の発端

組織と財政の縮小再生産/スパイ摘発「闘争」の開始/査問アジトへ集合す

第十七章 査問現場の三日間

小畑はスパイだったか?/大泉のスパイ告白/小畑達夫の急死

第十八章 党壊滅と運動の終焉

相次ぐ凄惨なリンチ事件/疑心暗鬼の中で進行する組織解体/最期の党中央と「多数派」の共倒れ

終 章 負の遺産の中で

単行本あとがき/文庫版あとがき/付録・資料/参考資料一覧/無産政党系図 (*後略)

 



   ここからは、本シリーズ第(2)回でご紹介した、池上彰・佐藤優共著「****真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960」(2021年講談社現代新書刊)より、「◇ 宮本顕治はなぜ非転向を貫けたか」の項を少し拾い読みしてみます。ここにもこの「日本共産党スパイ査問事件」が取り上げられています。

・・・佐藤 一方で宮本顕治は、「世界一の警視庁の拷問を知らないか、知らせてやろう」とか、「この間いい樫の棒があったからとってある」などと言われてひたすら自分が受けた拷問のことを書いている。「椅子の背に後手をくくりつけ、腿を乱打する拷問を繰り返し、失神しそうになると水をかけた」と書いています。

池上 壮絶ですね。

佐藤 宮本は自分の容疑について完全に黙秘したから拷問を受け、拷問を受けてもなお口を割らなかったということで英雄になった。でも宮本が口を割らなかった理由は案外単純だと思います。喋っていたら確実に死刑になっていたからですよ。

池上 宮本の場合は単なる思想犯ではなく、一九三三 (*昭和8) 年の「日本共産党スパイ査問事件」の主犯として逮捕されていますからね。この時、共産党の中央常任委員だった宮本や、野坂(*参三)も学んだモスクワの東方勤務者共産大学で幹部教育を受け、戦後は党の副委員長も務めた袴田里見らは、同じく党の中央委員だった当時二六歳の小畑達夫、そして三五歳だった大泉兼蔵という二人の党員に対して、党の内情を探るために特高(*特別高等警察)から送り込まれたスパイであるという疑いをかけた。そして同年一二月二三日に、東京都渋谷区幡ヶ谷のアジトで査問、つまり取り調べを行ったものの、この時に小畑が“急死”してしまったため、宮本らは遺体をアジトの床下に埋めた。しかし翌三四 (*昭和9) 年一月に警察の捜査で遺体が見つかり、宮本は小畑をリンチして殺した犯人、つまり殺人事件の容疑者として捕まった。

佐藤 もちろん、この査問事件についての共産党の現在の公式見解は、「小畑の特異体質による事故」というものですし、小畑の遺体に外傷がなく死因がショック死だったのも事実です。ただ、本当にリンチもされていない小畑が、査問の際の緊張のあまりショック死しただけだったのだとしても、遺体をアジトのアパートの下に埋めてしまっている以上、殺人の容疑を突っぱねるのはかなり厳しいですからね。

 だから宮本には頑張って拷問に耐えなければいけない彼なりの理由はあったのだけど、黙秘を貫いた結果、かなりデタラメな「証拠」を警察に作られてしまった。

 このスパイ査問事件では宮本の少し後に袴田も逮捕されているのですが、袴田は完全黙秘ができなかったので、死後外傷が確認されなかった小畑の身体に炭団(*たどん、火鉢などに使われる、炭を押し固めた燃料)の火を押し付けたとか、硫酸をかけたふりをしたなどの「供述」を作られてしまいました。

 (*以下の袴田供述書は、同書***の原文のカタカナをひらがなにし、旧仮名遣いを修正した)

<(前略)査問第二日目の取調べに当たっては前日よりも厳しく追及し従って夫(*そ)れが為に暴行脅迫の程度も前日に増して居りました。例えば査問中秋笹(*政之輔)が用意してあった斧の背中で大泉(*兼蔵)の頭をごつんと殴ると同人の頭から血が出た事を見受けました。又秋笹は小畑の足の甲あたりに火鉢のたどんの火を持ってきてくっつけました。すると小畑は熱い熱いと云って足を跳ね上げました。夫れが為たどんが畳の上に散って処々に焼け跡を拵えました。其の時私(*袴田)が薬缶(*やかん)の水を之は硫酸だと云って脅し乍ら小畑の腹の上に振りかけますと同人は本当の硫酸をかけられたと感じて手で水を除け様としました。其の動作が余り滑稽であったので夫れに暗示を得て多分木島(*隆明)であったと思いますが真物(*ほんもの)の硫酸を持って来て小畑の腹の上にかけました。すると段々硫酸が滲み込んで来ると見えて痛がって居りました。又誰かが錐(*キリ)の尖(*さき)で大泉の臍の上の方をこずきましたら大泉は痛いと云って悲鳴を挙げて居りました。(後略)>(袴田里見の第十四回尋問調書)(*中略)

池上 (*前略) 本章(*第一章)では左翼史を語るうえで重要な人物たちを取り上げました。野坂参三や宮本顕治など共産党でリーダーシップを発揮した者たちの人間性を考察することは、当時の党の性格を理解するうえで大変重要です。政党が残す資料はどうしても「政治的意図」が混在して事実誤認または隠蔽が行われることもありますので、さまざまな資料を渉猟して検証する必要があります。(*後略)・・・(前掲書****79~84頁より部分抜粋)

 

   どこまでが警察側によるデッチ上げなのか、それとも部分的な事実も含まれているのか、安易かつ簡単に断定はできませんが、少なくとも立花隆氏は、上記書の第三巻***で、6頁から170頁の袴田里見逮捕まで、165頁に亘って詳細にこの「日本共産党スパイ査問事件」の経緯とその関連事項を記述しています。皆さんもぜひこの第三巻を通読してみてください。そうすれば、どうして立花隆氏が上記の様に判断したかが納得できるのです。池上彰氏や佐藤優氏も言っている様に、「さまざまな資料を渉猟して検証」し、当事者たちの「人間性を考察することは、当時の(*共産)党の性格を理解するうえで大変重要」なのです。

   この「日本共産党スパイ査問事件」には、上記の記述の中で出てきた名前以外にもう一人関わった人物がいます。それは戦後法政大学社会学部で教鞭をとり、名誉教授となった逸見重雄氏です。逸見氏はこの事件で1934 (昭和9) 年2月に逮捕され、その後獄中で転向したといいます。東京帝大経済学部から京都帝大経済学部へ転学し、中退はしたもののその学識から教授職に就けたのでしょう。これから、立花氏の第三巻***のハイライトシーンを少しだけ読みますが、この辺りはこの逸見名誉教授の供述が重きをなしているのです。(*尚、上記と同じく、原文のカタカナ表記及び旧仮名遣いは適宜現代表記に修正)

・・・「最も惨酷なる査問」

 (*前略)だが、そうは思わぬ査問者たちは、スパイ告白のとば口以上には進もうとせぬ小畑に対して激高した。

   「同日、午後一時より、査問経過中に於いて自分の知れる限り最も惨酷なる査問が行われたり。先ず、宮本、袴田、木島、秋笹が小畑の周囲を取り巻き、がやがや申して嚇(*おど)かし居たるところ、秋笹が火鉢の火を挟み来たりたる故、自分(*逸見重雄氏)は之はやるんだなーと思い立ち上がり小畑の側に行きたり。此の時足を投げ出して坐り居りたる小畑の体を肩の付近を動かない様に宮本が押さえ付け、両脇には袴田と木島とが居りたるが、秋笹は火を小畑の両足の甲に載せたるところ、小畑は熱いと叫んで足をはねると、火は附近に散乱して畳を焦したり。此の間、どうだ白状するか、云うかと云いて、一同にて小畑を責めたり。又其の時、小畑を長く寝かせて押さえ付け、木島が小畑の胸部の処を掻き分けて腹部を露出し、硫酸の瓶を押し付け、そら硫酸を付けたぞ、流れるぞと云いて嚇かしたり。袴田は小畑の洋服のズボンを外して其の股脾(*腿)を露出し、更に一同にて押さえ付けて、絞め付けたり撲ったりすると、小畑は云うから待って呉れと申したので、一同手を放して聞き込むと、更に纏(*まとま)った事を云わぬ故、又一同にて虐めると云う風に致したり」(逸見予審調書)

 ここまでくれば、ほんとにスパイであったのなら、自白したほうが楽であろう。しかし、小畑には自白しようにもその事実がなかったので、どうしても「纏った事を」いうことができなかったのではないか。しかし、査問者たちは決してそうは思わなかった。さらに尋問がつづいた。

   「それから間もなく私(*袴田)が立って行って、床の間にあった薬缶(*やかん)を持ち来たり。こら硫酸をかけるぞと云って彼の腹部に其の中の水を少し注ぎかけると、彼は真実の硫酸をかけられたと思って縛られたまま手でその水を腹からはね退けんとしたのであるが、其の動作が余りに滑稽であった為め、それにヒントを与えられたものか、慥(*たし)か木島(*隆明)が瓶入りの硫酸を持ち来って、其の蓋で腹に一文字を引いたところ、それが間もなく効き目を顕(*あらわ)し、其の部分が変色し、同時に彼も痛さを感じたようである」(袴田(*里見)上申書)(*表現は異なるが上述の第十四回尋問調書と内容はほぼ同一)

 これだけ責めつけても効果がないし、小畑の疲労もひどくなったようなので、一時、小畑の査問を中止することとした。

 予期せぬ事態の出現

 こうして午後一時すぎとなり、一同、昼食をすませてから、前夜徹夜して寝ていなかった宮本、秋笹、木島の三人は、アンカに入って仮眠をとることになった。昨夜は家に帰って寝た逸見と袴田の二人が、今度は大泉の査問をはじめた。その間、小畑は部屋の真中に、縛ったまま座らせておいた。三人が寝ていることでもあり、この間の大泉の査問は静かに行なわれた。大泉の査問は、これまでの自白の細部をかためることに主眼が置かれた。尋問にあたったのは、主として逸見だった。

 この間、小畑はしきりにもぞもぞと動きまわるので、袴田はそれが気になってときどき目をやっていた。小畑は両手両足を細引と針金で縛られ、頭にはオーバーをまきつけられていたが、尺取虫のような格好で動こうと思えば、動けたのである。はじめは、どこかに寄りかかりたくて動いているのだろうと思って、黙ってそれを見ていた。実際、まず、熊沢光子の入れられている三尺の押入れの近くの壁にしばらくもたれるようにしていたのである。

 しかし、次第にそこから身を動かし、外に面した窓のところまで身を移してきたので、これはまずいと袴田は立ちあがって、側に寄っていった。すると、手足を縛ってあったはずの細引や針金が外され、頭にまきつけたオーバーを縛ってあったヒモもゆるんでいた。

 これは逃げようとしているのだなと直感して、袴田はあわてて小畑の体にとりついた。二人は組みつきあったまま後方に倒れた。その物音と、袴田があげた声に、逸見と寝ていた宮本と木島がとび起きてきて、ひっくり返った小畑の体にとりついた。

 宮本が小畑の体の上にのり、逸見が頭部をおさえ、袴田は腰のあたりを、木島は足のほうにとりついていた。秋笹はその少し前に起きて階下に降り、便所に入って用便中だった。小畑は絶えず大声をあげながら死にものぐるいの力をふりしぼって、体を起こそうとした、「其の様は例えて云えば、理性を失った兇暴性の気狂い(*ママ)が、あらん限りの力で暴れに暴れてでも居るかの如くであって」(袴田上申書) 四人がかりで押さえつけるのが精いっぱいなくらいであった。

 とりわけ査問者たちをあわてさせたのは、小畑が大声で叫びつづけたことだった。皆、小畑を押さえつけながら、口々に「黙れ黙れ」といっていた。袴田は頭をおさえている逸見に、「もっとしっかりおさえろ」と怒鳴ったが、逸見は極度に狼狽していて、口の中に何かを詰め込むといったことをせず、頭を押さえながら、「声をたてるな、たてるな」とくりかえすばかりだった。そして、下半身を押さえている者に「早く縛れ」といった。木島が足を細引でしばった。小畑を押さえつける主力となっていたのは、背中の上にのった宮本だった。

   「宮本は、右膝を小畑の背中にのせ、彼自身のかなり重い全体重をかけた。さらに宮本は、両手で小畑の右腕を力いっぱいねじ上げた。ねじ上げたといっても、それは尋常ではなかった。小畑は、終始、大声を上げていたが、宮本は、手をゆるめなかった。しかも、小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重をのせた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて、ウォーという小畑の断末魔の叫び声が上がった」(袴田「『昨日の同志』宮本顕治」)

 同じ場面を逸見は次のように述べている。

 「宮本が小畑の腕を捻じ上げるに従い、小畑の体の俯向きとなり『ウーウー』と外部に聞ゆる如き声を発した故、自分は外套(*オーバー)を同人の頭に掛けようとして居ると小畑は『オウ』と吠ゆる如き声を立て、全身に力を入れて反り身になる様な恰好をし、直ぐぐったりとなりたり」(予審調書)

 階下で用便中だった秋笹は、「二階にて小畑が大声にて喚き立つる声が聞こえて、次いで夫れを取り鎮める為バタバタと非常に喧しき物音が聞こえ、七、八分を経るや、小畑が虎の吼える如き断末魔的叫び声を上げたかと思うと後はひっそりとしたり」(予審調書)という。

 ひっそりとしたのは、一同が予期せぬ事態の出現に、しばらく呆然とその場に立ちつくしていたからである。階下で木俣鈴子が格闘騒ぎの音を少しでもカムフラージュしようと、ハタキで障子をバタバタやっている音が急に大きく聞こえてきた。メリヤスシャツとサルマタにズボン下がずりさがっただけの姿で、小畑の死体がそこにころがっていた。

・・・(前掲書***105~108頁より部分抜粋)


 これらの自白や調書も、全ては警察の拷問に耐えかねて、全員がでっち上げの偽証をしたというのでしょうか。兵本達吉著「日本共産党の戦後秘史*****」2005年産経新聞出版刊という、昭和13年生まれの、京都大学ご出身の元共産党員(中央委員会勤務員)の方が書かれた本には、次のような一節があります。

・・・元々宮本顕治は、査問は終始静かに行われたとか、暴力などは一切加えていない、と明言していた。ではどうして小畑(*達夫氏)が死んでしまったのかという疑問に対しては、「激論しただけでも、また一寸指なんかで触っただけでも」ポロッと死ぬような「特異体質、梅毒性体質、心臓の弱い体質」と述べていた。・・・(*****前掲書353~354頁)

   しかし小畑達夫氏の兄弟によれば、そのような体質ではなかったといいます。もう少し兵本氏の同上書*****の続きを読んでみます。「遺体が遺族に語ったこと」という項で、昭和9(1934)年5月22日付の「秋田魁新報」という地方紙に掲載された記事があるのです。

・・・小畑達夫には、俊男という実弟がいた。兄達夫と同様社会主義思想の影響を受けて、社会主義シンパの一人であった。(*中略)俊男は、達夫の死体を引き取った時、「兄(達夫)は、右の親指が普通の人の半分くらいだったので、それでようやく兄の死体だと判別できた」と語っている。新聞に掲載された(*小畑俊男氏から兄・達夫氏の友人の竹内福哉氏に宛てた)手紙には、次のように書かれている。

   「お手紙、今朝拝見しました。いつに変わらぬご厚情嬉しくて、一同を集めて読み上げました。ただただ涙あるのみです。(中略)十六日朝、ご飯の時、新聞を開いたら、もう全てが分かりました。すぐに警視庁に行って尋ね、所轄の代々木署へまわって死体を見ました。何という変わり果てた兄の姿だったであろう。新聞の報道は何の誇大でもありませぬ。正に残虐の限りを尽くしたというべきであります。その時の感慨は筆舌につくせぬものです。手や足は縛られ、勿論、体の自由は奪われていたでしょう。更に口の中には綿が一杯詰まっていました。解剖の時、その綿をとっても、最後まで口は開いたままで歯が合わなかったのです。物を言う自由、自分の正しさを言う自由を奪われ、血迷える同志の手責めに苛まされたのでありましょう。それを思うと情けなく、くやしくなります。兄はどんなに悔しかったことでしょう。

   顔の半分は濃硫酸にやけて青むらさきに変色し、一つの目は完全に潰されていました。首に残っている縄の痕、体の傷は言うまでもありませぬ。

   解剖の時、洗われて、見えなかった顔の傷もはっきり見えました。鋭利なノミの様なもので切ったものでしょう。長さ三分から五分(*約1~1.5cm)くらいの切り傷が真新しく現れました。新聞には擦過傷とありますが、あれはウソです。解剖前に母も妹も三郎にもその他の人たちにも見せました。これ以上書けませぬ。書くのは残酷で……。(中略)思うに胸が一杯だ。あの疵、あの残虐!」

 宮本は、小畑について、「激論しただけでも、また一寸指なんかで触っただけでも」ポロッと死ぬような「特異体質、梅毒性体質、心臓の弱い体質」と述べている。

 小畑の実弟が書いた手紙を読む限り、小畑が一寸指で押されて、ポロッと死んでしまったとは、到底思えない。(*中略、小畑達夫が、本当に「特高警察のスパイ」であったかどうかに関しては、)ある(*共産党の)議員と秘書が秋田へ調査に出掛けていった。幸い秋田には、小畑の青年時代の親友が何人か健在で、日本共産党秋田県委員会の顧問や、日本共産党の外郭団体の名誉顧問として、まだ頑張っていた。四人に当たったところ、四名とも全員一致、小畑はスパイなどやる男ではないと揃って断言した。「困難な時代であった。皆大変だった。小畑も人間だ。時には動揺することもあったろう。弱気になったこともあったろう。しかし、小畑に限って、(*共産)党を敵に売り渡すような人間ではない」。

・・・(*****前掲書356~358頁より)

 

 わたくしは、たとえそれが意図的な殺人ではなかったとしても、このようにして死んでいった小畑達夫氏が可哀想でなりません。しかも仲間に疑われたまま、このようにして亡くなったのだとすれば、なおさらのことです。皆さんもぜひ、この立花隆氏の「日本共産党の研究」講談社文庫版、第三巻を読んでみてください。そして自らの頭脳と感性で、この本に書かれている内容が、共産党の主張する通り、全て嘘と偽りに満ちた捏造であり、でっち上げであるのかどうか、ご自身で判断してください。

   いくら「無謬性の原則」を守らねばならないとしても、それでもなお、もし人命に関わる大きな嘘を平然とつく様な組織や団体があるとすれば、皆さんは、そのような組織や団体に、自分や家族の生活の安全や安心を、委ねる気になるでしょうか。少なくともわたくし個人は、決してそのような組織や団体は信じません。それだけは、はっきりと申し上げることができるのです。(次回に続く)