前回に引き続き、山本長官批判にお応えしたい。


巷間に溢れる山本長官批判の中で、()でご紹介したアゴラの記事は、よく勉強された上で、一般的に疑問に思うことをよく纏められている。いわば胸をお借りして、このご指摘内容に沿って異なる観点からのご説明を加えることで、お読み下さる多くの方々に、山本長官に関する認識をより深めて戴くことを主旨としている。決して「批判のための批判」や悪意ある破壊的議論を挑むものではないことを繰り返し申し上げておきたい。


前回(5)の続き

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アゴラ記事の今回の該当ご指摘部分(2)

残るアゴラ記事のご指摘のうち、以下の二点を順に検討してゆきましょう。

(1)ミッドウェー島攻略のための同島攻撃は、空母艦載機ではなく戦艦の艦砲射撃を用い、空母艦載機は戦艦の援護及び敵空母出現に向けるべきであり、さすれば、慌てて陸用爆弾から魚雷に兵装転換することも生じなかったというご指摘。

(2)米海軍は、戦艦を浮かぶ要塞として、島嶼上陸攻略作戦や空母の防御に使用したが、山本長官をはじめ日本海軍は、こうした新時代の戦艦使用法を知らなかったのがいけなかったのであり、大艦巨砲主義自体が時代遅れになったのではない。航空戦力とレーダーにより、日本海海戦型の艦隊決戦は過去の戦法となったため、こうした新時代の戦艦使用法にするべきだったというご指摘。


先ず、確かに米海軍はサイパン、硫黄島、沖縄などの島嶼上陸攻略作戦で、戦艦部隊の艦砲射撃を有効に使用しました。しかし、それは空母部隊の艦載機による空襲で日本側の航空部隊や飛行場施設を破壊し、制空権を確保してから戦艦部隊が接近して艦砲射撃をしているのです。逆に防衛側が制空権を保ったままの艦船攻撃は、失敗します。


実例としては、開戦当初の第四艦隊によるウェーク島攻略作戦が挙げられます。航空戦力を随伴しない日本側の上陸攻略部隊は、少数の米海兵隊航空機の反撃に遭い苦戦します。他にも上陸用舟艇などの装備や体制にも問題はあったのですが、決定的要素は島嶼防衛側の航空戦力と砲台でした。結局第一回目は駆逐艦などを沈められ失敗し、真珠湾攻撃の帰途、山口多聞司令官の第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)の艦載機による支援攻撃により、米海兵隊航空戦力を撃攘し、ようやく攻略できました。


古来海戦史では、艦隊と陸上砲台が戦えば、艦隊側が不利とされてきました。加えてウェーク島攻略の例の通り、僅か数機の航空戦力でも繰り返し出撃することで、駆逐艦を撃沈し、上陸部隊に多大な損害を与えることができます。従って、ミッドウェー島攻略も、必ず先に空母艦載機部隊が米陸上航空部隊を制圧し、制空権を確保した上で攻略部隊の戦艦・重巡洋艦部隊による支援(艦砲射撃も)のもと、海軍陸戦隊と陸軍部隊が上陸して攻略する段取りでした。


また山本長官は、ガダルカナル島の陸軍部隊を支援するため、二度に亙り高速戦艦部隊を投入し、特に第一回目昭和17年10月13日の戦艦金剛、榛名以下の第三戦隊は、夜間艦砲射撃を米軍飛行場施設に加え、大損害を与えています。これは米海軍戦艦部隊に先んじて島嶼に艦砲射撃を行った例と言ってもよいと思われます。その後も、戦艦霧島、比叡を投入し、米海軍も新鋭戦艦サウスダコタとワシントンを繰り出して砲戦となり、先ず比叡が沈み、翌日霧島も沈みました。従って、山本長官が戦艦の使い方を知らなかったとは言えず、それよりは本連載(1)でご説明した通り、燃料問題が大きく戦艦部隊の行動を制約していました。また、占領した蘭印の石油はパラフィン成分が多く、艦艇の燃料としては不具合であったことも影響しています。


それから、ミッドウェー海戦での日本空母の陸用爆弾と魚雷の兵装転換問題ですが、山本連合艦隊司令部は南雲機動部隊に対する命令と事前の図上演習における指示で、空母上の攻撃機の半数は魚雷を装備して米空母部隊の出現に備える様に明確に指示していました。


しかし、日本海軍通信の暗号解読や通信解析により、ミッドウェー攻略を予測した米海軍は、あらかじめ同島の陸上航空戦力や施設を増強し、南雲部隊航空攻撃隊の到着前に全航空機を離陸させて迎撃体制を執っていたため、思うような空襲効果が挙がらす、指揮官の友永丈市隊長は「第二次攻撃ノ要アリ」と打電、その時点ではまだ索敵機からの米艦隊発見の報告もなく、そもそも米空母部隊はいないものと予断していた南雲司令部は、魚雷を抱いて待機していた第二次攻撃隊の兵装を、魚雷を外して陸用爆弾に転換する様命じます。


そのためその作業を進めていたところに、米艦隊、続いて空母一隻の発見報告が索敵機から届きます。ところが東経から西経に入っていたため、索敵機上の敵艦隊報告位置計算に間違いがあり、実際より遠方に米機動部隊がいると誤認し、まだ時間の余裕があると南雲司令部は判断してしまいます。


加えて空母上空にはミッドウェー空襲隊の飛行機が戻ってきており、少ない残燃料で着艦を待っていたため、放置すると海上に不時着機が多数出てしまう状況のもと、この収容を優先し、その間に一旦交換しかけた陸用爆弾からまた魚雷に兵装を再転換させて攻撃隊を出そうとします。陸用爆弾では米空母を沈められないからです。さらに零戦隊は多くが艦隊防空戦闘のため、燃料と弾薬を補給しないと敵空母への攻撃隊の護衛戦闘機として同行させられない。護衛なしで攻撃隊を出すと、今まで目前で護衛戦闘機のない米航空攻撃隊が散々味方の戦闘機に撃墜されているので、危険が大きすぎると判断します。これはある意味で実に正しい合理的判断だったのです。


しかし、戦場では「兵は巧遅よりも拙速を尊ぶ」の格言通り、戦機が重要です。この時、山口多聞第二航空戦隊司令官(飛龍座乗)は、赤城の南雲司令部に対し、発光信号を送ります。「現装備ノママ直チニ攻撃隊ヲ発進セシムルヲ至当ト認ム」つまり、先ずは沈めなくとも米空母の甲板に陸用爆弾で穴を開け、飛行機の発着艦ができなくなればよいのだから、戦機を失わずこのままの現有装備でとにかく早く攻撃隊を出そうという意見具申でした。そのためにミッドウェー空襲隊の飛行機が多少海上に不時着となっても仕方あるまい。それよりも敵空母がいる以上、先ずは一刻も早く攻撃隊を出すべきだというのが山口司令官の判断でした。しかし南雲司令部は、先ずミッドウェー空襲隊を着艦させて収容し、その間に魚雷を装備して、護衛戦闘機隊も準備し、攻撃体制を整えてから発進させるという正攻法を執り、この山口司令官の意見を却下しました。


そしてこの準備作業中、片や上述の通り、ミッドウェー島の米陸上航空部隊から南雲機動部隊への攻撃隊が来襲してきます。各空母は空襲を避けるため高速回避行動をとり、左右に転舵するたびに艦が傾き、兵装転換作業も迅速には進捗せず、ようやく発進準備が整い出した頃、実際にはもっと近いところにいた米空母部隊からの攻撃隊が、ばらばらになりながらも南雲機動部隊に到達したのです。先ず最初に偶々、米空母から雷撃機部隊が到達して、低空からの魚雷攻撃の体制に入ったので、艦隊防空を担っていた零戦隊は低空に降りてこの米雷撃機部隊を全機撃墜しました。


しかしこの直後、今度は少し遅れて上空にたどり着いた米空母からの急降下爆撃機部隊が、日本空母に襲いかかり、赤城、加賀、蒼龍が各数発被弾、兵装転換で格納庫内などに置いていた魚雷や陸用爆弾が誘爆し始め、手の付けられない大火災となりました。偶々、空襲回避行動で三隻とはやや離れた位置にいた飛龍のみはこの空爆を免れ、以後山口司令官が航空戦の指揮を執り、決死の反撃に出て、米空母ヨークタウンを大破・航行不能にし、翌々日伊号168潜水艦がとどめの魚雷攻撃をしてついに撃沈しました。


一方、飛龍もその後米空母艦載機の攻撃で4発被弾して大火災となり、復旧の見込みなしと判断され、ついに味方駆逐艦の魚雷で沈められます。山口多聞司令官と加来止男艦長は部下の退艦を見送り、飛龍と運命を共にしました。山口司令官は指揮下の飛龍、蒼龍を失い、また少数機による決死の反撃に攻撃隊を送り出す時、俺も後から行くから、死んでも必ず敵空母を沈めてこいと言った責任をとったものと言われています。


前回の本連載(5)で戦艦部隊を主力とする「漸減邀撃作戦」の問題を取り上げましたので、今回の上記(2)のご指摘については、かなりご説明できていると存じますが、根本的に戦艦大和級の46サンチ(18インチ)主砲でも届くのは、最大射程で42キロ(東京~大船間の距離)ですが、実用射程は30キロ以内であるのに対し、当時の空母艦載機の攻撃圏内は源田實大佐によれば200~250海里が適当との意見だったので、370~460キロとなり、十倍以上の攻撃可能距離となります。真珠湾攻撃の例では六隻の空母で350機(第一波・第二波計)の攻撃隊を出していますから、もし第二擊をすれば700機マイナス喪失・損傷機を繰り出せる勘定となります。米空母部隊は時期にもよりますが、1000機位は攻撃に出せたのです。


航空機対戦艦の戦いは、開戦直後の英海軍戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号と巡洋戦艦レパルス号の撃沈や、後のレイテ沖海戦の戦艦武蔵と坊ノ岬沖海戦の戦艦大和の撃沈が実証している通り、戦艦の沈没は免れ得ません。もちろん空母が随伴して防空戦闘をすれば護衛はできるとしても、それでも尚、400キロ前後の距離から航空攻撃を繰り返し受けつつ前進し、かつ敵艦隊も回避せず進んで来て、戦艦射程距離の約30キロ以内のお互い敵艦隊を捉える位置まで距離を詰めてから、主砲を発射して敵艦隊を撃滅することが、本当に実現したでしょうか。米艦隊も馬鹿ではないので、空母艦載機の護衛があるとしても、戦艦の砲戦可能距離までわざわざ米戦艦部隊を近づけて日本の戦艦部隊と砲戦で決戦するよりは、遥か手前から空母艦載機による攻撃隊を繰り出して日本艦隊を襲撃してくるでしょうから、伝統的な大艦巨砲主義による戦艦主力同士の艦隊決戦が生起したとは思えません。


もちろん、レイテ沖海戦での米護衛空母艦隊との遭遇戦のような偶然の出会いはあるかもしれません。また、もし栗田(健男)艦隊がそのままレイテに突入していれば、先に突入した西村(祥治)艦隊の戦艦山城、扶桑が交戦した、戦艦六隻から成る米戦艦部隊との砲戦が生起したことでしょう。皮肉なことに栗田艦隊が米艦隊を求めてレイテ突入を中止し、北上したためにこの日米戦艦部隊同士の決戦は起こらなかったのです。もちろんこの時点(昭和19年10月)では山本長官は一年半前に戦死しているので関係はしていません。古賀峯一長官も半年前に戦死(殉職扱い)しているので、豊田副武連合艦隊司令長官の指揮下です。


因みに、戦艦艦長など戦艦勤務が多く戦艦部隊の司令官を元々は希望していた米海軍のレイモンド・スプルーアンス第5艦隊司令長官は、沖縄攻略戦の最中、伊藤整一司令長官が率いる戦艦大和以下の第二艦隊が沖縄に来攻することを知り、指揮下のモートン・デヨ少将の戦艦部隊に迎撃させようとしました。しかし、マーク・ミッチャー中将の空母部隊の準備が整い攻撃の打診を受けて、結局空母艦載機に攻撃を命じ大和以下を撃沈しました。スプルーアンス提督は戦艦乗りとして、大和と米戦艦の砲戦で最後を飾ることも考えましたが、現実的に迅速確実に少ない被害で大和を撃沈できる方法を選びました。もし米戦艦部隊が相手だったら、大和も最後の華を咲かせたことでしょう。尚、伊藤長官はかつての駐米勤務時代に、スプルーアンス長官とは親交がありました。激戦で相まみえた両提督の胸中はいかばかりだったのでしょうか。


こうして見てみますと、燃料も豊富で空母も護衛空母も充実していた米海軍であったからこそ、制空権確保後、米戦艦部隊を島嶼上陸作戦支援の艦砲射撃に存分に使用できましたが、日本海軍は燃料不足と空母戦力不足に悩ませられる状態で、かつ頼みの味方基地航空部隊も米航空部隊による先制攻撃で弱体化して制空権を奪われた状況下では、アメリカ式の戦艦使用法を行える体制にはなく、結局はレイテ作戦とか天一号作戦(戦艦大和以下の沖縄突入海上特攻作戦)の様な無理な作戦しか残念ながらできなかったということでしょう。(今回はここまで)