ご訪問頂き有難うございます
私達夫婦は、石川県と福井県にそれぞれの先祖のお墓がある為、併せてお墓参りと周辺の観光などをさせて頂く事が恒例となっております
そして、この連休もいつものように、お墓参り後の周辺の観光と神社巡りを楽しんで参りました
ここ数年の間に金沢や、永平寺なども訪れたので、今回は西へ西へと移動して、福井でお墓参りの後、天橋立を目指す旅の計画を立てました
今回は、この越前・若狭・丹後の旅で訪れた神社でのエピソードや、撮影させて頂いた写真や、感じたことなどを数回に分けて掲載して参りたいと思います
(※このブログでの寺社巡りは全てiPhoneのカメラで撮影しております)
神社の詳細については、それぞれHPやwikiなどのリンクを貼っておきたいと思いますので、気になる方はチェックしてみて下さいね
元伊勢、皇大神宮(内宮)参拝後、境内から「天岩戸へ」と書かれた看板を頼りに進みます
社務所は開けて下さっているとの事ですが、お待たせしても申し訳ないです、歩みを早めましょう
そhして、アップダウンの山道を少し進みますが、他の参拝者の姿も見えず、少し不安になってきました
夫くん「すゆんち、聞いてへんぞ、、これ、がっつり山登りのパターンのやつや」
ワタシ「意外と遠いんかな、、、あの境内入口のゆるい地図では近そうに感じたんやけど、、、」
神社巡りあるあるうっかりハイキング樹々が鬱蒼と生い茂る山道、息を切らしながら登っていると、、
おや、視界が開けましたよ
夕方の光が神々しく降り注いでいました
向こうに見えるとんがりした山を遥拝するように、石の祭壇が設けてあります
「一願成就」と書かれているので、お願いをひとつだけするのが良さそうですよ
後から神社のHPで調べて見ると、ピラミッドに似た日室ヶ岳(岩戸山)は、原生林におおわれた神霊降臨の神体山、その頂上には磐座らしき巨岩もあり、皇大神社はもとこの山頂にあったとの伝承もあるのだそう、
古代からの信仰を感じられる場所に、テンション上がります
一言、お願いをするならば、結局思い浮かぶのはいつもこの思い
皆が健康で幸せでありますように
皇大神社から、天岩戸へは200mという案内でしたが、アップダウンの山道を20分程歩いた感覚です
やっと、小さな鳥居が見えて来ました
鳥居をくぐると、眼下に川が流れています 天岩戸はどこかしら
晴れていましたが、日差しは届いておらず、‟谷底”といった雰囲気
社務所でご挨拶して「天岩戸はどこですか?」と尋ねました
社務所の方が、「参道が川岸に有るけれど、今日は前日の雨で川が増水して、ちょっと行きにくいよここから遥拝も出来るけどどうする?」
と、教えて下さいました
遥拝所から見下ろしてみると、あの小さな祠のところが天岩戸とされている場所の様で、そこへの道に川の水が溢れているようです
しかし、他の参拝者もいらっしゃるようなので、行けなくもないのでしょう
ちょっと怖いですが、夫くんも居てくれるので安心です
とにかく、行けるところまで行ってみましょう
↑この写真の右手奥が拝殿、その下が参道なのですが、絶えず2㎝くらいの川の水が流れています
皆さん、流れの無い場所で参拝の順番待ちですが、足元は不安定な危険な場所です
私達も、ギリギリ浸水しない厚みの靴底のスニーカーで、何とか行けそうです
道幅も狭く、他の方とすれ違うのには「どうぞどうぞ」と、譲り合いながら
増水した川は流れも速く、落ちたら流されちゃう危険もありましたよ
なんとか無事、祠の下に到着
高さ4、5m程でしょうか、、どうやらこの崖を鎖を伝って登るようです
夫くん「うわ、まじか、、 すゆんち、聞いてへんぞ、、崖登るなんて、、、」
ワタシ「ワタシも知らんかった、、こんなことになってたんや、うっかりハイキングどころではない、うっかりアスレチックや」
夫くん「すゆんちはこれ、よう登らんやろな、、、」
ワタシ「せやな、これはワタシには無理なやつや、、上で滑って落っこちて激流に呑まれて死んでしまうのがオチやん」
夫くん「すゆんちのどんくささやったら、間違いなく落っこちるなぁ よっしゃ、ここで待っとき、オレがすゆんちの分までお願いして来たるから」
日頃から何かにつけてどんくさいワタシを良く知る夫くんは、そう言うと、颯爽と崖を登って行きました
私は夫くんに合わせて、崖の下から参拝させて頂きました
この天岩戸の鎖を伝って‟崖を登れない”からといって、‟御利益が無い”のではないかと心配される方もいらっしゃるかも知れませんが、ここからの文章で、そのように感じない私の個人的な思いを綴って参ります
私は昔から球技は得意な方でしたので、まるっきりの運動音痴でもないのですが、ジャングルジムや、こういったアスレチック系の動きがとにかく苦手で、どのように身体を使うのか分かりません握力も弱く、鎖を掴んでられるかどうかも不安ですし、、、後ろには他の参拝者もお待ちなので、迷惑をかける訳にも行きません
私には、他にも苦手な事、出来ない事が沢山有ります
ああ、数え上げるとキリがありません
人間は、ある物事に対して、‟出来る=良い” ‟出来ない=悪い”という基準についつい心を縛られて、他者を批判したり、羨んだり、あるいは他人と比べて劣る自分に自己嫌悪に陥ったりしてしまいます。
ここからは、さらに個人的な感覚による記述になりますので、ご参考までにふわっと頭の片隅にでも置いて下さると幸いです
例えば、出来る事を凸、出来ない事を凹とするならば、人間の魂のカタチは、凸凹だらけで人それぞれその形が違います。
そして何故か人間は、その凸凹を善悪として捉えてしまいがちです。
私は人の魂が凸凹を持っているのには理由があって、他の人の凸凹と合わさって、やっと完成されるジグソーパズルのピースの様に存在していると考えます。
自分のカタチを知る事が出来れば、おのずと他人のカタチも見えて来たり、または他人から見つけて貰いやすくなります。
ですから、自分のカタチを知る為に、人は色んな人生経験を積み重ねる必要があるのだと思います。
一番大切な事は、他の人間だけでなく、自然、動物、‟あらゆる存在と合わさって、宇宙の丸い形を埋めて完成させて行く為に、凸凹のピースとして存在している”という事を認識する事だと感じています
最初から一人で丸い形のピースを形成している人間はいませんし、自分は丸い形だと勘違いしていると、どこにもハマることなく、孤独を感じたままの世界に身を投じてしまうのでしょう。
自分の魂に凹があるのは、他の魂と調和する為だとも言えます。
その凹を沢山感じられる人は、きっと、他人の凸を沢山感じられる感性を持っていますから、その感性が既に凸でもある訳なので、凹だらけの人間なんてそもそも存在しないのです。
‟出来ない事を出来るまでやり遂げる美学や教育”の中で、とくに私達の世代は育って来ました。
小学校の給食を食べるのが遅かった私は、掃除の時間になっても一人で食べさせられている子供でしたし、体育の授業では、登り棒を出来るまで皆の前でひとりで登らされるなど、今でもトラウマになるような経験がいくつもございます
そのような経験のおかげもあり、自分自身の凸凹のカタチを知る事が出来たのですが、、、
出来ない=悪 の図式がびっしりとこびり付いてしまいました
しかしそれは、人間の単なる‟思い込み”でしか無く、
神様にとっては、‟出来る事”‟出来ない事”をどちらも同じくらいの‟現象”としてしか捉えていらっしゃらないようです。
ですから、私の様に崖を登る事が出来なくて、離れた場所から参拝しても、神様はどなたも同じように愛おしく微笑んで下さっていると、あの時、そのように感じられたのです
いささか、とりとめの無い文章になってしまいましたが、、(いつもの事ですね、スミマセン)
凹だらけのワタシが、これから先の人生において、自分自身の凸凹を認める事や、それがどんな形であるのかを知る事が、さらに豊かに幸せに過ごす為に必要であると感じ、ここに成長の記録とのようなものとして綴ってみた次第です
天岩戸神社参拝を終え、車に戻ると、もう5時前です
お宿へ急ぎましょう
この日宿泊したお宿は、お部屋から天橋立が見えました
旅館の会席料理に舌鼓
日本酒は、酒呑童子を頂きました ご馳走様です
翌日は、お宿のすぐ側の、籠神社(このじんじゃ)へ早朝から参拝する予定ですよ
呑みすぎない様に致しましょ
越前・若狭・丹後にて神社巡り、次回は籠神社(このじんじゃ)参拝の様子を綴って参ります
今回も最後までお付き合い頂き有難うございました