3.11

日本人にとって絶対に忘れられない日。

東北であのようなことが起きるとは、

思いもしませんでした。


あの日は普通に仕事をしていました。

地震が起きた時はビルから避難して、何度も余震があって、その度にまた外に出た。

けれども誰も早く帰ることなく、終業時刻までみんな働いていて。

電車が止まってることも知らなかったぐらいです。

ただ、年配の男性が「東北の方はもっと地震酷かったみたいだよ」と言っていたのを聞いて不安になったのを覚えています。

なぜなら私、父の転勤の関係で小学三年生の六月から中学卒業までを仙台で過ごし(家族は私が高校三年になるまで仙台にいたので、その間実家に帰省してました)第二の故郷なんです。

とは言え、ほとんどその頃の友達との付き合いは途絶えてるか、関東にきている人しかいないのですが…

終業時刻になり、まずは渋谷駅に向かいました。当然、電車は止まっていてそこそこ人もいたのですが、そこまでの混乱が起こっているようには思えず。電車が動くと信じていたので、そのまま会社近くのカフェに戻って時間を潰そうか、それとも本屋にでも行くか。駅からまた戻る途中、ヤマダ電機だったかな。テレビの大画面で地震による影響で全線電車ストップ、みたいなニュースをやっていたのを通りすがりに観て初めてこれはもしかして大事なのでは?と気付く。 

そのまま本屋に行って、防災関係?震災マップだったか、帰れなかった場合の地図などが載っている本とかをチェックした記憶があります。

後、確か街の公衆電話は長蛇の列で超混んでいたので会社の公衆電話からまだ仕事中の夫の会社にかけてお互いの安否を確認したような。 

寒かったし、カフェで腹ごしらえをして待とうと思い結局お店が閉まる22時まで座ってお茶を飲んで。気になったのは携帯(私は当時ガラケー)の充電がもつかどうか。一応ヤマダ電機やビックカメラなんかで充電器がないかみたけど、気付くのが遅く、全て売り切れでした。

iPodのラジオを聴いてあまり携帯は使わないようにして…

結構冷静だったと思います。

岡山に住む友達が、テレビをみて「宮城県や東北が大変なことになっている」「渋谷駅のタクシーやバス乗り場もいっぱい人が並んでいつ乗れるか分からない状態。トイレや暖房があるなら会社に戻った方が安全だよ」とアドバイスをくれたので、変に動き回らずに会社に戻って暖を取ることができました。

まあ、そうは言ってもカフェに荷物置いたまま、駅の方へ様子を見に行ったりはしたかな。

ハチ公前の交番で警察官の方たちが「どこどこ方面に歩いて帰る方はこちらの方向です!」などと案内してたくさんの人たちが歩いて帰っていました。

そうだ。それで周辺のビジネスホテルなんかにも空きがないか電話したりしたんだった。

多分危機管理能力が高い人は地震直後にタクシー拾って帰宅したり、ビジネスホテルを取ったりしたんでしょうね。

 結局、会社に戻る前に当時できたばかりだった近くのファミリーマートを覗いたら携帯の充電器があったので、無事買えました。

 

とにかく、夜の10時を過ぎて会社に戻ったのですが、本店の前を通った時普段ならとうにシャッターがおりているはずなのに正面口のガラスの向こうにはたくさんのお客様が座って、店長たちが温かい飲み物や毛布などを配っている様子がみえました。閉まってなくて良かった。なんとなくそう思いながら戻ると、社にもたくさん帰れない人が。ちなみに私の部署は誰もいなかったけど、ボードをみたら部長が東横店に行っているようで他は「帰宅」の文字が。私も一回会社を出たので帰宅したことになってました。

とりあえず自分のデスクで座って、電話がかかってきたら取って。多分、お店でお客様対応、従業員対応をしてた男性社員は大変だったと思います。

携帯が繋がらなくなっていました。

当時町田の実家に独りだった父の安否も気になっていたけど、妹がバスを乗り継ぎ行って自分のマンションに連れて行ってくれたことが分かり、ホッとしました。

そして午前0時近く。部長からの電話を取ったら「帰ってないのか」とすごく驚かれたのを覚えています。大丈夫です、会社に泊まらせてもらいますから、と伝えてその夜は役員会議室の椅子を使って毛布ももらって、同じように帰宅困難者になった女性の同僚たちと一夜を過ごしました。

男性たちは床に段ボールを敷いて寝ていました…寒いし硬くて痛いし、眠れなかったでしょうね…

帰れなかったけれど、トイレの心配もなく、暖かく過ごせたのは幸運でした。友の的確なアドバイスもありがたかったです。

一方の夫は大渋滞の中何時間もかけて帰宅できたようで、ホッとしました。私を迎えに行くとも言ってくれましたが、友人のアドバイスのおかげで高速も閉鎖されていたりで無理だと分かったので、会社にいるから心配ない、と伝えられて良かったです。

朝は何故か?あったカップヌードルを同僚たちと食べてまた普通に座っていたら、続々と社員が出社してきて直属の上司などは私が帰れなかったことにびっくりし、心配してくれました。

が、ネットでそろそろ埼京線が動きそうだと分かったので…

動いた。となってから駅に向かいぎゅうぎゅう詰めの電車に乗って帰ったのを覚えています。9時前後の電車だったかなぁ。

ちなみに、当時一緒に働いていた同じ部署の、もう1人の女性パートさんはすでに電車は無理、と把握していて会社から祖師ヶ谷近くの自宅まで何時間もかけて歩いて帰宅したそうです。当時お子さんたちも学校に通っていたから、会えるまで不安だっただろうな、と。

彼女もまた、青学や國學院に行けば場所を開放しているよ、などと情報をくれました。

そして帰宅して、テレビをつけてようやく、、、震災のニュースをみたのです。


あの日のことを忘れない。

今日、外にいましたがその時間はひとりそっと祈りを捧げました。