感情はコントロールするべきものなのか?
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前回は
しばらく前の10月で
ずっと習いたかった太極拳
(習いたい!でも・・・の
逡巡・沈静化を数年おきに発症)を
ようやく習うことにしたことなどを
お話ししました。
今回は色々あって、
9月から学び始めた
ヒューマンデザインや、
最近感じたことを合わせて
お話しします。
なお、
今回は私にとって
より思いを表現しやすい文体の
「常体」で書いています。
なのでテイストが違います。
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感情はコントロールするもの、
よくそう言われるけれど、
これに当てはまらない人もいる。
ヒューマンデザインを学んでわかった。
当てはまらないが私だ。
「何を選ぶのが正解か」を
教えてくれるのは、
私の場合感情なのだ。
ヒューマンデザインで言うと、
私は「感情権威」の人だ。
なので、
感情をコントロールしようとすればするほど、
魂のデザインに沿って生きるための
権威から離れてしまうのだ。
しかも、
湧いた気持ちを味わい尽くさず
中途半端に押さえ込もうとすると、
歪な形で燻るようになる。
・・・全く今までと逆。
良かれと思って一生懸命やってきたことが
全て裏目になっていたのは
皮肉としか言いようがない。
そもそも、
感情は自然に湧く波である。
だから、
感情はコントロールしようとするのではなく、
湧き上がるモノを見つめ、
味わい切る方が良い。
下手に小細工して
鎮静化しようとすると
かえってうまくいかない。
しかも、
コントロールしようとすればするほど、
「ネガティブな感情が動いてはいけない」と、
感情が動くこと自体に否定的になる。
そうなると、
そんな自分を認めまいと、
湧いた感情を否定し始める。
自己否定から逃れるために。
その結果、
感情(心)で選ぶのではなく
マインド(思考)で
「正しいもの」選ぼうとしてしまう。
そして、感情に気づかなくる。
つまり、「感情の鈍化」
平たく言うと「感情が死んでる」状態だ。
感情権威の人は
人生の指針となる方位磁石を
狂わせることになる。
大人になってからの約30年、
私はずっとそれをやってきて、
人間関係は苦しくなり、
うまくいかなかった。
コーチングでも
怒りをコントロールするように言われ、
コントロールしきれない自分は
ものすごくダメな人間のように感じた。
別に人に当たり散らすとか
語気を荒げるわけではない。
気づいてないだけかもしれないが。
むしろ「怒ってはいけない。
怒るなんて未熟な自分の現れ」と
怒りを人に表現するのが苦手で、
そのせいで
人に軽んじられたり、
嫌な目に遭うことも多かったくらいだ。
そもそも怒ると疲れるし。
なので、
怒りをなかったかのように
コントロールして
怒りを沸かさないようにしてきた
私の怒りは
表出しない分(できない分)
多分静かで深くて強い。
そんなこともあり、
今思えば、
コーチングを学び続けるのが
辛かったのもこのことも一因なのだろう。
そもそも、
湧いた感情に良し悪しはなく、
「怒り」イコール「悪」
のような単純な話ではない。
湧き上がった怒りや不安や焦燥は、
収まるまで何もせずただ味わえば良い。
味わい尽くすと感情の波は収まる。
それを下手にコントロールして
鎮静化しようとするから、
その反動で感情が逆に暴走したり、
長く尾を引いたりするのだ。
湧いた怒りは6秒待てば良い。
これはアンガーマネジメントでも
言われている。
なぜならば、
アドレナリン分泌ピークは
怒りを発してから6秒後だからだ。
この6秒を
「私怒ってるなー」と、
「湧いてきた感情を無加工のまま
ひたすら味わう」時間に
すれば良いのだ。
怒りを鎮静化しようと
コントロールするのではなく、
このやり方はとても良かった。
おかげでたまの、
かつてなら
大激怒、
「龍の逆鱗」クラスの怒り源に触れられた
「お怒りマックス」も
そのレベルの怒りにならなくなった。
しかも、
圧倒的に後引きレベルが軽くなった。
そんな怒りが湧いた後は、
自分はどうしたかったのか
自分に向き合えばそれでお終い。
つまり内観するのである。
・・・鎮静化しようと
怒りを否定するのは
一見もっともらしい。
「感情は(怒りは)コントロールする」は
かっこいいし、高尚な響きで良さげだ。
それがあっている人もいるだろう。
でも本当に、
怒りイコール悪、
コントロールするべきものなのだろうか?
違うと思う。
世の中の芸術は
湧き上がる「怒り」の奔流から
生まれているのも
また事実だ。
ピカソの「ゲルニカ」は
ドイツ軍によるスペインへの
空爆への怒りから生まれた。
ショパンの「革命のエチュード」は
母国のワルシャワで起きた
ロシアに対する武装蜂起への
鎮圧に対しての怒りに対して生まれた。
ゴヤの1808年5月3日(マドリード市民の虐殺)も、
ナポレオン軍による
スペイン市民虐殺への怒りが元だ。
ボブ・ディランの
《The Lonesome Death of Hattie Carroll》も、
まだ人種差別の色濃い1964年、
白人の裕福な男性が
黒人女性の殺害後軽い刑罰しか
受けなかったことへの抗議が元で生まれた。
大切なので、
もう一度言う。
感情に良し悪しはない。
「怒り」、感情をコントロールするのではなく、
そのまま味わい、見つめれば良い。
怒りもまた、
感情の大きなエネルギーだ。
「感情をコントロール」が上手い人と
世の中で言われている人も、
おそらく
「コントロールする」というより、
「感情に飲まれない」だけではないだろうか。
「あ、湧いてきたな〜。
ふーん。」
その後に感じるもの、
つまり自分の反応を
選んでいるだけだと思う。
私の「今の学び」は
「足りていない私がもっと良くなるために」
ではなく、
「本来の自分」になるための、
今までつけてしまった
「私にとって不要なもの」を削ぎ落とすための学び。
「足す」のではなく「引く」ための学び。
「ない」ではなく、
既に自分の中にある「ある」に目を向け、
そこを伸ばすための学びだ。
何が正解かはその人にとって違う。
学ぶ時にはそこを考えて、
「誰かの正解」を選んではいけない。
ようやくここに至った。
様々な経験をして、
今はより本質的にこのことに気づくために
間違えて痛い思いをする
必要があったのだと思う。
『鬼滅の刃』の冨岡義勇の
「生殺与奪の権を他人に握らせるな」は
本当に名言だと思う。
またゆるっとお伝えしたいと思います。
お読みくださりありがとうございました。