今日は、桜桃忌ですね
世界遺産のニュースで盛り上がっていることもあり
今宵は『富嶽百景』を読んで太宰を偲ぼうと思います
『富嶽百景』、大好きなんです
『女生徒』と同時期、『走れメロス』の前年
つまり太宰が結婚して落ち着こうとしている時期の作品で
お見合いの顛末なんかも描かれていて
『人間失格』に代表される作風に比べると
落ち着いた美文の作品
……に見えるのですが
だからこそ
純粋な屈折、とでもいうべき
奇妙な精神性が出ている作品なんじゃないかと思うのです
何しろ冒頭から
富士山を、ホメているの、けなしているの
な、奇妙な文章
私は、最初の段落にある、この一節が好きです
「たとえば私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらわれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落とされて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだろう。ニッポンのフジヤマを、あらかじめ憧れているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、そのような俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴え得るか、そのことになると、多少、心細い山である」
この一節、大好きです
だって、この後、この『富嶽百景』で描かれるのは
折々に見た富士山の思い出であって
思い出とともにある富士山は、もはや
「素朴な、純粋の、うつろな心」
で見たものではないわけで
(……というかそもそも日本人が、そんな心で富士山を見るのは不可能なわけで)
つまり
「富士山って、思い入れがなけりゃツマラナイ山じゃん」
と言いながら
その思い入れを語り続けることによって
富士山への逆説的な愛情が見えてくる構造になっているわけですよ
ツマラナイ、俗だ
って言いながら、結局、富士山が好きなんでしょ
素直に言いさないよ
……と言ってやりたい
(でも素直になったら太宰ではない)
富士山って、いいよな
と、素直に言わない(言えない)この屈折
それが『富嶽百景』の魅力なんじゃないかと思います
余談ですが、この精神性……
かの『古今和歌集』の名歌
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
」
に通じるものを感じます
「桜がなかったら、落ち着いていられるのに」という歌
桜を素直にホメなかったこの歌人、太宰の前世か って思います