「いつ死んでもおかしくない」というメリット、デメリットその2 | タイプ9のブログ

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雑談とかとか。

今日は、色々と面倒くさくなってしまったので、珍しく「朝ご飯(兼昼ご飯)を外食する」という事にしました。

こんなのが毎日だと、食費が高くなりますが、回数や値段の制限はしている事や、「無理して仕事や予定に差し支えないため」という違う意味合いもありますので、まぁ良しとしたい所です。※ここからは、一昨日の下書きを行きます。


今回は「前回(一昨日)の続き」と言えば続きですが、私は前回の話「本来書こうとした内容と少し違う事を書いてしまった」という事を、記事を上げてしばらくしてから思い出したので、あくまでも「前回の続き」という形で話を進めたい次第です。


前回は、

「いつ死んでもおかしくない」という事へのメリット、デメリット

でしたが。


「いつ死んでもおかしくない」

とは言え、世の中にはそのような体や病状であっても、

具体的な余命宣告や抜根的な治療法が何一つ提示されずに生活する人

というのは、今の私自身も含めて日本では珍しくなく存在します。


だからこそ、藁をも掴む思いで民間療法に頼る人が後を絶たないのは、私にもその気持ちがよく解ります。


しかし一方で、「いつ死んでもおかしくない」というのは、当事者側から言い換えたら期限の判らない余命宣告のようなものの側面もあるので、

「いつ死んでもおかしくない自分だからこそ、自暴自棄になったり、かえって自分の事で頭がいっぱいで(死後に遺されるであろう)他人の事など思いやれない」

という心理状態になりやすいデメリットもあるかと私は感じます。


こうして、当事者側と第三者の両側面の目線で文章を書いてみたら、ちょっと内容が重くなった気がします。


そうですね。(ここから今日の更新になっています)


「いつ死んでもおかしくない」


というのは、具体的には


医学的あるいはWHOが提示する(健康診断の)基準値を著しく上回ったり下回ったりして、体や臓器が危ういと思われる状態


の事を言っています。


しかしだからといって、そうそう都合良く(?)すぐに人は死ぬ訳ではありませんし、運が悪ければ死ぬよりも先に意識の方が無くなったまま生きてしまう可能性だってありますし、むしろ何一つ病気の無い健康な若者の方が、不慮の事故であっという間に先に逝かれてしまう事だってあります。(少なくとも今の私からすれば、自分より若い人なら先に逝かれてしまうなんですよね)


この手の話も言い出したらきりがありませんが、


「いつか死ぬ事に関しては皆平等な部分もあるけれども、病気や(身体的な)爆弾を抱えて生きている分、他人とは少し違う事情や日常で過ごす必要がある」


という考え方や結び方が妥当なんですかね?


で、仕事や買い物の時間がなくなってしまいますので、今日はそろそろ行きますね。