平尾台に向かう途中、福岡県指定天然記念物の

みやこ町宮原の「千女房のヤマザクラ」

に立ち寄りました。

トイレ付きの駐車場が整備されていたのには

驚きました。

 

 

(現地解説板より)

サクラは、バラ科サクラ属に属する樹木で

主として北半球の温帯と暖帯に

分布する落葉広葉樹です。

一般的に、ヤマザクラは野生種の

桜の代表的なもので、

葉と花が同時に開くのが、

ソメイヨシノと区別する大きな特徴です。

「千女房のヤマザクラ」は樹高約19m

幹囲約5mで、幹は地表面から

約1.5mのところで3本に分かれ、

幹の基部は、それぞれ85cm、

85cm、60cmです。

根回りは約4.7m、枝は東西約24cm、

南北約26cmに広がり、

樹齢は約300年と推定されています。

この「千女房のヤマザクラ」は、

以前から地元の人々に

知られていましたが、

「勝山町史」編集にともなう

専門的な調査により、

ヤマザクラとしては県内屈指の

巨木であることが判明し、

注目を浴びることとなりました。

現在では、花の時期に町内外から

多数の見学者が訪れる

観光スポットになっています。

これにともない、地元の人々にも

「千女房のヤマザクラ」の保護に向けた

気運が高まり、周辺の清掃・整備活動が

定期的に行われています。

平成16年11月22日には

町の文化財(天然記念物)指定を

受けました。

 (以上、解説終わり)

 

 

千女房というのは地名ですが

女房が1人でも持て余しているのに

1000人もいたら…

考えただけでも背筋が凍りつきます。

 

女房が1000人もいれば、

田中みな実や有村架純級の

おねーちゃんも混じっているといいのですが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#千女房のヤマザクラ

 

 

今年も基山(標高404.5m)に登りました。

基山(標高404.5m)は、白村江敗戦後の

天智4年(665年)に基肄城が築かれました。

基山(標高404.5m)と東峰(標高327m)とを

土塁と石塁で囲み、その内側の尾根上に

建物が配置されていました。

建設を担当したのは亡命百済人の憶礼福留と

四比福夫です。

 

 

(現地解説板より)

特別史跡基肄城跡

天智天皇4年(665)唐・新羅の侵攻に備え、

太宰府防衛のため築かれた朝鮮式山城である。

西峰の坊住山と東峰の稜線を巡る土塁は

延長4キロメートル、筒川の谷を袋状に囲み、

その4か所に城門を開いている。

南流する筒川の出口は石塁で塞ぎ

水門を設けて排水した。

城内の尾根上には40棟以上の倉庫が建てられ、

武器や食糧を蓄えた。

「史跡巡り」の道標に沿って歩くと、

今に残る水門、東北門、北門や烽台、

石塁、土塁の跡、大きな礎石の並ぶ倉庫の跡などに、

築城当時を偲ぶことができる。

(以上、解説終わり)

 

 

白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた後、

唐・新羅の侵攻が危惧され、

全国に防衛拠点が設けられました。

世界の覇権国である

唐が攻めてくるかもしれないという

当時の恐怖心はいかばかりだったのでしょう。

今も昔も、大陸からの侵略に

備えなければなりません。

国防を忘れたら、国は亡ぶのです。

 

左派政権により軍縮を進めていたドイツは

ロシアのウクライナ侵略で

政策を大転換しました。

日本で当てはめるなら

立憲・共産党が転向して、憲法9条改正を

主張するようなものです。

 

覚醒できたドイツに対し、

日本はいまだに平和ボケから目が覚めません。

まだまだ憲法9条があれば、

防衛力を増強する必要はない

と主張する人がいます。

 

 

なお私は、左派ではありません。

懐が右派右派になりたいです。

 

 

 

#基山 #オキナグサ

 

 

「いものがんぎ」は中世山城「木山城」の

堀切や曲輪です。

古代山城の基肄城を利用して

中世に「木山城」として再び築城されました。

その木山城の痕跡として、基山頂上の本丸跡や、

土塁を溝状に4ヶ所掘り切る

「いものがんぎ」(芋の雁木)などが

造られています。

「いものがんぎ」はイモ畑の畝に

似ていることに由来します。

 

 

 

 

 

 

オキナグサのシーズンになったので、

今年も基山(標高404.5m)に行きました。

筋力が著しく低下しているので、

9合目登山口からのスタートです。

 

基山は「令和」の由来となった

大伴旅人ゆかりの地です。

 

 

「令和」は、1300年前、大宰帥

大伴旅人により催された「梅花の宴」で

詠まれた歌(万葉集)からの出典です。

 

「初春の令月にして 気淑く風和らぎ

梅は鏡前の粉を披き

蘭は珮後の香を薫らす」

 

その大伴旅人や筑前守の山上憶良らが、

この地の役人として西下、

筑前歌壇と呼ばれるほど

数多く歌を残しました。

 

大伴旅人は基山に訪れ、歌を残しています。

 

 

(現地解説板より)

橘の 花散る里の ほととぎす

片恋しつつ 鳴く日しぞ多き

大伴旅人(万葉集巻第8)

この歌は、大伴旅人が妻を亡くした時に、

天皇の命で弔問に訪れた

勅使石上朝臣堅魚とともに

記夷の城(基肄城)に登り、望遊した日に

亡き妻を思い歌ったものです。

大伴旅人は、奈良時代初期727年に

太宰府の長官として赴任し、

山上憶良等とともに「梅花の宴」を催す等

多くの歌を作りました。

また、万葉集の選者であった

大伴家持の父でもありました。

また、この「花散る里」という表現は、

この後「源氏物語」等色々な文学作品に

用いられるようになります。

橘の白い花の香りをお楽しみください。

基山町観光協会

(以上、解説終わり)

 

 

神亀5年(728)、愛妻大伴郎女を亡くした

大宰帥大伴旅人が

嘆き悲しみの心を詠んだものです。

 

「橘の 花散る里の ほととぎす

片恋しつつ 鳴く日しそ多き」

 

【訳】

橘の白い花も散る初夏のこの里は、ほととぎすも、

一羽だけで誰かを恋いしそうに鳴く日が多いことである。

 

 

 

大伴旅人は亡き妻を偲んで

歌を詠みました。

 

私の妻は、もし私が先立ったら

保険金を受け取って鼻歌を歌うのでしょうか?

 

 

#基山 #オキナグサ