姉歯の女。 一度目の心理 | 九段下・渋谷・池袋・新宿・品川・上野・秋葉原★心療内科ゆうメンタルクリニック

姉歯の女。 一度目の心理

こんにちは、ゆうきゆうです。


今回もメルマガ から、セクシー心理学の世界をお届けいたします。



さて、よく「辞世の句(歌)」というものがありますよね。

文字通り、世の中を辞めるときの句。
死ぬ間際に詠んだと言われる句のことです。


たとえば、かの大泥棒、石川五右衛門は、こんな歌を詠みました。


「石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」


…たとえ浜の砂がなくなっても、盗人がなくなることはないだろう。(直訳)



かの豊臣秀吉は、こんな歌を詠んだと言います。


「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」


…露のように落ちて、露のように消えた我が身だなぁ。
 浪速のことは夢のまた夢だったなぁ。(直訳以下)


どちらも、かなりカッコイイです。
二人とも死んでから数百年が過ぎていますが、未だに語り継がれるのも分かり
ます。


………しかし、です。


僕は思います。
こういうの、本当の意味での、辞世の句じゃない。

本当に死ぬ瞬間って、なんていうか、もっと痛くてつらくて、必死だと思うんです。
病死にしても、事故死にしても。

たとえば、


「ぐああああ あああああああ ぐぬあああ」とか。

「ギォヒェア アギャアアアアア ウグゥゥァ」とか。


前者は病死、後者は事故死です。
なんか雰囲気的に。

五七五七七にしても良かったんですが、あまりに無意味なので、五七五で止めました。


他にも、老衰だったりしたら。

「……ん…んんぁ? …んぁんんんぁぁ …んんぁぁぁ…」(ガクッ)

「おじいちゃーん!」

みたいな。


おそらくそんな感じです。往々にして字足らず。

おそらく本当の意味での辞世の句は、99%、こういうことになると思います。

こういうのを避け、カッコよく最期の句を残すためには、普段からカッコいい枕詞みたいなのを言っておくことが必要だと思います。


「ひさかたの」とか「ぬばたまの」とか。


そうすれば、


「ひさかたの………ぐはぁっ!(突然の死)」


みたいになるはずですから、周りの人に、


「あぁ、なんか素敵な辞世の句を詠もうとした途中で死んだんだわ」


とか思われるはずです。


うん。まぁ。
死ぬ瞬間は良くても、普段から枕詞連発することで、失うモノが多すぎる気が
しますが。


………。


空想が 暴走したら 妄想だ。(←キャッチコピー)
ゆうきゆう、ゆうきゆうでございます!

色々とやるせない気持ちを抱えつつ、本日もセクシー心理学の世界をお楽しみください。



◆ 伊勢物語の、話です。


さてあなたは、「伊勢物語」という古典をご存じでしょうか。

在原業平(ありわらのなりひら)という色男が主人公で、各地であらゆる女性と恋愛をする、というものすごく分かりやすい話です。

おそらく、中学・高校の古典の授業で、読んだことのある人もいるのではないでしょうか。


ちなみにかの「源氏物語」も、色男である光源氏が同じようなことをする話なわけですが。


そう考えると、古典の授業って意外に凄いです。

ある意味、「女教師・禁断の課外授業」とか、「新米ナース・夜のいけない回診」とかのそういう小説が、現代文の授業で使われているのと同じような気がするんですが、違いますでしょうか。

違いますね。もう一刀両断で。


話を一瞬で本題に。


まぁ、伊勢物語というのは、とにかくそういう話です。

この主人公である在原業平が生涯に交わった女性の数は、何と一説によると、3733人だとか。

まぁ、純粋に計算して、1週で1人と考えても、年に50人。
割ると約70年。ハタチでスタートしたと考えても90才。ムリです。

それにメールもケータイも電車も新幹線もなく、行動範囲も恐ろしく限られた時代に、週に1人のターゲットとなるほどの女性と出会うことが可能だったのでしょうか。


とはいえ、そういうツッコミは、ある意味、無粋。


これに関しては、「伝説」として考え、とにかく「業平というのはすごいヒトなんだなぁ」くらいに考えるのが一番かもしれません。


さて、そんな百戦錬磨の彼ですが、一度だけ「うんざりした美女がいた」という話があります。

ここでは、そのエピソードを紹介しましょう。



◆ カイコとニワトリの女。


あるとき、彼は東北の方に旅をしました。
その旅先で、色男である彼の評判を聞いた美女が、彼に和歌を送ったのです。

まさに、誘惑の和歌。


「なかなかに 恋に死なずは 桑子にぞ
            なるべかりける 玉の緒ばかり 」


訳すなら、


「恋に憧れたままで死ぬよりも、たとえ短くても、カイコのように両思いになって生きていたい」


一応、カイコは夫婦仲がむつまじいことで有名なんだそうです。

あぁそうですか、的な豆知識なんですが。


まぁ、訳すと結構ロマンチックですが、桑子(カイコ)をたとえに出すなど、微妙に田舎っぽいところがある歌でした。


業平もそんな気持ちにはなったのですが、とりあえず誘われていることは分かったので、好奇心もあって、彼女のところに行きました。さすが色男。


ここで平安時代、「女のところに男が行く」というのは、文字通りそのものズバリを表します。

はい。もう、単刀直輸入にそういう意味です。


すなわち、
「そういうつもりで部屋に入れたんじゃない!」
みたいな悲劇は起こらないわけです。
うん。微妙に平安、うらやましい。


まぁ、とにかく業平は彼女のところに行ったのです。

しかし。
普通なら、朝まで過ごすところを、彼は夜中に帰って行ってしまいました。

その理由は、伊勢物語の中には、ハッキリと記されていません。

しかし、普通に考えて、やはり「性格的にうんざりした」と考えるのが妥当ではないでしょうか。


実際にそのあと、女から、業平に送られた和歌があります。


「夜も明けば きつにはめなで くたかけの
            まだきに鳴きて せなをやりつる」


訳すなら、


「ニワトリめ、夜が明けたら、水槽にブチこんでやる!
 朝になっていないのに鳴いて、あの人を帰らせるなんて…!」


まぁ、早く帰ったことを、ニワトリのせいにして、婉曲的になじっているわけです。


現代的にたとえるなら、


「みのもんため、ブン殴ってやる! 朝からテレビなんかに出てるから、お昼だと思って、あの人が帰っちゃったじゃない!」


みたいな感じでしょうか。微妙に違いますか。
ここまでたとえに失敗した例も珍しいと思います。


いずれにしても、こういう風に、直接的に相手を責めず、間接的・婉曲的に他のものを責める、というのは和歌の世界では常套手段です。


たとえば、


「雨が憎い! 雨が降っているから、あなたが来られないもの…」

とか、そんな感じですね。



しかし。
常套手段ではあるけど、その表現が風流で上手かどうかは、また別問題。


実際に「桑子(カイコ)」にしても「くたかけ(ニワトリ)」にしても、かなり田舎っぽい用語・表現で、風流とはほど遠いモノでした。


おそらく現代の口説き文句の中で、「ムカデ」とか、「コモドオオトカゲ」とかの単語が飛び出してくるのと同じような感じだと思います。


そう考えると、先ほどのみのもんたへのたとえは、非常に近いも

何でもありません。


まぁ、いずれにしても、一事が万事。

おそらく夜通し、そういうことを言われたため、彼はウンザリして帰ってしまったと考えられます。


そしてそのあと、彼はその女に、こういう歌を送っています。


「栗原の あねはの松の 人ならば
             都のつとに いざといはましを」


「あねは」は「姉歯」ですが、もちろんあの建築士さんとは関係なく、単なる地名です。


「栗原のあねはの松」というのは、結局はその女のこと。
相手を松の木にたとえているわけです。


すごくシンプルに訳すなら、


「松が人間だったら(君が人並みだったら)、都に一緒に連れて行ったのに」


というわけですね。

ここからも、風流を解さない女への皮肉が読み取れます。
まぁ、皮肉というか、批判ズバリなんですけど。


しかし女はこの和歌を送られて、なぜか勘違いして喜んだと言います。


「あの人はやっぱり私のことを、愛してくれてたんだー!」と。


風流が分からない人は、最後まで分からないものだった、というのがこの話のオチらしいです。




◆ この話の最大のポイントは!?


この話こそが、業平が女性にウンザリしたという唯一のエピソードです。


どんなに女性好きの男であっても、そして相手がどんなに美人であっても、その「風流でない振る舞い」や「あかぬけなさ」には勝てなかった…というわけです。


もちろんこれは男性でも同じことです。


ここで、その理由をちょっと考えてみましょう。


彼女の一番のウィークポイントは、自信満々に「これでいいんだ!」と思って、田舎っぽい和歌を送っていること。

歌人として有名な業平に堂々と和歌を送るなんて、かなりの自信がないとできないことです。


でも、それが、風流ではない。
すなわち自分のことを客観的に見る目に欠けていたと考えられます。
こういう細やかな配慮を、心理学では「社会的スキル」と言います。


しかし、ここでこの話の結論を、


「だから風流になりなさい」
「恋をする前に己を磨きなさい」


なんてありがちな言葉で終わらせるつもりはありません。

そんな風に思っていたら、いつまでも何も始まりません。


ここで考えてみましょう。


彼女が無粋なのにもかかわらず、業平は、それでも一度は彼女と会っています。


すなわち。


この話の最大のポイントは、


「勇気を出せば、1度目はある」


ということ。


実際に彼女の和歌は無粋でしたが、おそらく「好奇心」や、または「一回の和歌だけじゃ分からない…」という気持ちから、彼は一度のデートをOKしました。


これを「一度したから興味が減ったのでは?」なんて思う女性もいるでしょう。
しかし彼も、おそらく彼女の性格などを完全に知っていたら、おそらく一度目があったかどうかは分かりません。

実際に彼女も、彼が来てくれたことで、大喜びだったはず。

すなわち「自分が受け入れられた! あの和歌で気持ちをつかんだ!」と思ったからこそ、そのままに振る舞い、そして彼に見限られたわけです。


あなた自身、そういう体験はないでしょうか。


最初、一度だけはデートしてもらえた。
でも、そのあとにまったくOKがもらえなくなった…。

または営業で、最初に会うのはOKしてもらえた。
でも、そのあとに何をしても連絡がなくなった…。


僕の人生は、そんな経験で満載です。
まさに歩く、あねはの松。

過去のことを思い出すと、涙が止まりません。


いずれにしても大切なことは、


「一度目のOKがあったからといって、あなたのすべてが受け入れられたとは限らない」


ということ。

相手は単なる好奇心や、あなたという人を見極めたくて、会っているだけの可能性もあります。


そこで浮かれずとにかく観察して、相手の好みになるようにガンバレ!

ということです。

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◆ 今回のまとめ
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○ 勇気さえ出せば、一度目はある。

○ そしてその一度目でこそ、油断せず、相手の反応を見ながら話すこと。


というわけで、伊勢物語から「あねはの松」の話。
いかがでしたでしょうか。


当然ですが、何もしなければ、その一度目すらも始まりません。

間違っても、「私は自分に自信がないから、色々と学ぶまで、恋愛は早い…」
なんて思っていてはダメなのです。

とにかく自分の立ち位置に関係なく、勇気を出してメールを送ること!
そうすれば一度目はあるかもしれません。

万が一、二度目がなくても、そこでつかむ何かだってあるはず。
それは確実にあなたを成長させるはず。


ですので。

あなたの思っている気持ちを、決して閉じこめないでください。
一度目がなければ、何も始まらないんですよ。


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

(完)





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