ずっと小刻みに震えていたチェ・ヨンの拳。
びりびりと音のする稲光を伴いながら、青い血筋がぷつんと切れそうになるほど、固く握り締められていたその手は、チェ・ヨンの無理やりの力で強引に開かれ、今まさに、酒屋の扉に細く長い指がかけられようとしている。
店の中ですっと動く小さな黒影。扉が僅かに、空いている。真っ直ぐな黒髪の隙間から、濡れた光がその影を追うように、微かに動く。
思い出のその場所。
ウンスを背負い、ここまでたどりついたあの夜。
大陸の元まで四方手を尽くし、やっとの想いで入手した幻の美酒を、自分の女にようやく呑ませることができた、そんな場所。
あの時、自分の女は、それまでに見たことのないような表情で微笑んだ。
「うれしい」
いつもはなかなか口にしない素直な言葉を、弾ける笑顔でそう言った。想像以上の喜びようを目の当たりにして、思わずとろけそうになるチェ・ヨン。
一見細身に見えながら、実のところ、神々しいまでの逞しい上腕筋を備えているその躰。一瞬でその躯体が、首筋から腰へと崩れ落ちそうになる。だがすぐに沸き起こった歓び。男の歓びというよりは、もっと幼く甘い歓び。増殖しながらチェ・ヨンの躰を駆け巡る。今にもへなへなと腰から砕けそうになっていたその躰は、自身の髄から湧き出した感情により、ようやくそこに止まることができた。
美青年であるのに無粋な表情にいつも押し隠し、年齢よりはるか下に見える可愛らしい表情を持っているのに、さらにその下に隠して生きてきたチェ・ヨン。その右頬に、一瞬であのえくぼが自然と作られてしまったあの時。
恥ずかしくて隠したいのに、喜びの方が強すぎて、表情を元に戻すことができない。えくぼとともにはにかんだその顔は、どうにも隠すことができずそのままでいるしかなく、酔っ払って上機嫌のウンスに、すぐに見つかった。
「ヨン…えくぼ」
「ヨンのえくぼ」
「えくぼができてるっ」
えくぼえくぼと、子供のようにはしゃぐ自分の女。そのことがまた、嬉しくてならない。
この高麗へ連れてきてからというもの、自分なりに落とし所をなんとかつけ、必死に生きてきたユ・ウンス。
チェ・ヨンはそれを理解しているつもりでいたが、チャン・ビンから典医寺での様子を仔細に聞くまで、本当はまるで分かっていなかった。
自分がどれだけ無理難題を押し付けているのか。自分のエゴで、どれほど苦労をかけているのか。その想いで、チェ・ヨンの心もまた、深く傷ついていた。
だからこそ、なんとか自分の愛している女を喜ばせたい。その心を癒してやりたい。その一心で、用意した幻の美酒。
それを呑ませた時の、想像した以上のウンスの反応に、チェ・ヨンはいいようのない満足感で酔いしれた。男としての満足に。
「これが、男の醍醐味なのか」
「自分の女に、自分の甲斐性で好きなものを与えてやる」
「これこそが、男にしか味わえない歓びなのか」
と……。
父からの教えで、清廉潔白を己に戒めてきたチェ・ヨンは、財はあってもそれを自分のために使うことをしない男だった。物欲がないと言った方がよいのか、とにかく必要最小限のものさえあればよく、幼い頃からそういった欲というものがなかった。
だが、この時だけは違った。
もちろん、心で、いやその心を持った躰で満たしてやるのが一番、そうは思っていたが、自分の愛して止まない女の喜ぶ顔を見てみたい。そう想うのも本心だった。
だが、欲しいものは何かと、何度聞いても答えを言わないウンス。
市中に二人で出かけたくとも、その機会を得ることができず、ゆえに、店で好きなものを存分に買ってやりたいと思っても、それが叶わない。
あの時はそうだった。
衣が好きなのか、髪飾りが好きなのか、それとも書物が読みたいのか、それまでずっと無骨で無粋をとおしてきた男には、さっぱり分からなかった。
恥ずかしさを堪え、チュンソクだけにそれとなく聞いてみたが、その男もさっぱり分からないと言う。しょうがなく、迂達赤隊員たちの話をそれとなく盗み聞きしていると、口を揃えて言うことが一つだけあった。
「お酒が飲みたい」
「おいしいおつまみと一緒に」
医仙は必ず、日替わりで警護にあたっている隊員たちに、そう声をかけるのだと。夕方近くなり医院もひと段落してくると、必ずそう言うのだと。
自分以外の男に、酒を飲みたいということなど言語道断、とそのこと自体に激しい憤りを覚え、
「そのような言葉。決して言ってはならぬ」
と、珍しくチェ・ヨンは顔を真っ赤にして命令したが、それと同時に、影では美酒探しを開始していた。
ウンスと出会った時のことを思い出し、ははん、と納得したチェ・ヨン。自分の好きな女は、思った通り、花より団子なのだと。そして、必死で最上級の酒を探し求めた。高麗では手に入らぬような幻の美酒を。
驚いたのは酒屋の女店主。チェ・ヨンがそのようなものを欲しいということなど、それまで一度もなかったから。底なし沼の大酒のみではあっても、特段うまい酒でなくてよかった。その男は。
「民が飲む酒でよいから」
いつもそう言い、女店主が進める高価な酒は、密かに金を払い、隊員たちに回していた。それを知っているのは、女店主だけ。誰も知らない。チェ・ヨンがそのような細かい気遣いができるような男だということを。
そんな場所。ようやく手に入れた酒をともに酌み交わし、だが、ありえないほどの勘違いで二人断絶のどん底を経験し、ようやく初めての愛を交わした、絶対に忘れられぬ思い出の場所。
チェ・ヨンは、激しくーーーー。
嗚咽した。
ヨン・クォンがその男の襟元に手を伸ばすと同時に、翻ったその顔は、みるみるうちに大粒の雫でぐちゃぐちゃに歪み、雷のような怒号とともに、自分の兄と慕うクォンと、自分の無二の旧友であるチャン・ビンを、その声一つで吹き飛ばした。
怒りと哀しみと謝罪でぐちゃぐちゃになってしまった感情。雷功を伴う左手ではなく、鬼剣を持つ右手でもなく、その感情にあふれてしまった声で、屈強な躰の男二人を遠くへ追いやった。
「来い」
「来れるものなら来い」
「来てみろ。俺のところへ」
「来いっ」
その声とともに、向かっていくチェ・ヨン。鬼剣を打ち捨て、雷功も力で必死に消し去り、無になった躰一つで、二人へ飛び込んでいく。
チェ・ヨンの怒号に吹き飛ばされ、尻もちをついたヨン・クォンとチャン・ビン。一瞬の出来事に驚いたものの、すぐ我に帰り飛び起きると、この男たちも一心不乱に向かっていった。
「俺のものだったんだ」
「私といればこそ生きるのだ」
そう叫びながら、向かっていく。火花が飛散る目で。理性など、一切かなぐりすて、ただの男になった三人が、今まさにぶつかり合おうとしているこのスリバン街。
雲に隠れていた蒼白い月。嫌々ながらも慌ててそこから現れ、その場を、その三人が立ち向かおうとしているその石畳を、円状に照らした。
艶やかに光る真っ黒な選び抜かれた石。
いや、滑るように照る。
一つ一つが。
蒼白い月によって。
もはや行き場などなく、捨て身を覚悟した二人の男の愛と、戦いの場から戻って以来、なぜか自戒の念に駆られ続け、それゆえ、このような事態を引き起こしてしまっているチェ・ヨンの愛が、錯綜し、激しくぶつかりあおうとしている。
誰も止められるものはいない。泡を吹いて見ているしかないテマン。頼みの綱のチュンソクはまだ王宮へ戻っていない。影から覗いていた女店主たちは、腰が抜けて動くことすらできない。
屋根伝いに走る黒い影。
嘶くチュホンの声。
「何をしている、ヨンっ」
クッパの店から慌てて走り出ながら、怒声を浴びせるマンボ兄妹。
だが、それらの音も声も姿も、この三人の男の耳、そして目に、一切入らない。その頭に描かれているのは、ただ一人。
あの女の姿だけ。
「イムジャっ」
「ウンスっ」
「医仙っ」
同時に発したそれぞの言葉に、再びそれぞれが激しく怒り、ついに突っ込んだ。
同時に。
チェ・ヨンへ。
ヨン・クォンとチャン・ビンへ。
肌身離したことないこの鬼剣
打ち捨て
俺は行く
いざっ
来いっ