過去に親しく行き来した人、二人の訃報を知って、
複雑な心境に襲われている。
死者のニュースに慣れてしまっているといえば、
その通りなのだが。
目の前の仕事に忙しく、ブログを書く余裕もなく
毎日、何かに追われるように暮らしているのだが、
昔、仲が良かった人たちの訃報は心に応える。
昔の編集仲間だった森永博志と
阪神タイガースのピッチャーだった小山正明さん。
森永とはマガジンハウスにいた頃、いろんな仕事を一緒にした。
時代を読みこみ、面白いことを面白く仕立てあげる名人だった。
森永と一緒に作った『平凡パンチ』の韓国特集。よく売れた。
もう40年前のことである。
いまの新大久保の賑わいとそっくりな混雑と賑わいを見せていた34年前の明洞のロッテホテルに戻そう。取材スタッフが韓国に滞在したのは二週間のことだったが、釜山、慶州、大田、済州島などにも取材にでかけ、白熱した日々が続いた。この韓国取材に参加したスタッフ名は前号で紹介したが、そのうち、森永博志、生江有二、長濱治、三浦憲治などは、ウィキペディアにも名前があるのではないかと思う。このときのオレの部下には、後に『Hanako』の編集長になる友野耕二とか、のちに『BURUTUS』や『Vogue』の編集長をやった斎藤和弘などがいたのだが、韓国に同行したのは船山直子だけだった。
このときのことを森永博志は自分のホームページで次のように書いている。
1960年代には一世を風ビしていた『平凡パンチ』も、1985年にはどん底になっていました。誌名も『Heibon PUNCH』と洋語になったのは、そのころ同じマガジンハウス刊行のメンズマガジン『POPEYE』『BRUTUS』が人気を博していたので、洋風にすればという発想です。編集長は石川次郎さん。1960年代に『平凡パンチ』のエディターとなり、以降『POPEYE』『BRUTUS』を創刊してきた名物編集長です。1984年に、どん底だった『平凡パンチ』を復興すべく、編集長に就任。その前は華の『BRUTUS』の編集長だったので、メイン・ストリームでいくつもスポットライトを浴びていた。それが『Heibon PUNCH』じゃ完全に裏街道です。かつて一世を風ビした分、余計哀切極まる。『BRUTUS』で働いていたフリーエディターは誰も異動する次郎さんに随行しませんでした。
しかし自分は次郎さんに大変恩義があったので『Heibon PUNCH』で働くことにしました。もう全然、トレンドじゃない。今は「戦前である」と想定し「戦前風俗画報」という連載をスタートし、アメリカン・タトゥー、ロリコン、他取りあげる頁をつくったり、フーゾク取材をやったり、やってもやっても部数は伸びず、落ちていく一方です。もうやけくそ気味で編集をしていると、ある日「韓国で一冊つくろう」と当時だと、余りにも突拍子もない企画が生まれてきました。そのころ韓国は、まだ戒厳令下です。取材もむずかしければ、日本のメンズマガジンに紹介するようなネタなんてあるはずもない。
「ここまで部数落ちたら、並みのことやったって復活しない。誰もやらないことやらなきゃ起死回生しないよ」と次郎さんは煽る。本人は行かないんですから。で、結果、ソウルに取材チームが行って、一冊丸ごと韓国特集を制作した。行ってみたら、面白かったネ。米軍基地の町・イーテオ(イテオンのこと)にものすごくファンキーなナイト・ライフがあった。市中のホテルにはすでにグローバルなDJクラブもあった。東洋一と誇るタワーも建設中だった。見るものすべておどろきの連続。それまでどの日本のメディアもそんなソウルを紹介していない。まだ遅れてはいるけど、「国際的だな」と印象をうけた。しかし、撮影中に、KCIAにつかまって、あわや刑務所送りという危機はあった。実際、夜は戒厳令下だった。相当な緊迫感はあった。まだ日韓の政府も激しく摩擦していた。
そして、1985年の正月に、その韓国特集が発売されました。発売と同時に、NHKの9時のニュースで取りあげられるくらいのスキャンダルとなった。そのころ映画監督・大島渚がバカヤローと韓国を罵倒し、それに対し韓国の文化人が一斉に反発し、騒動に発展していた。その期の『Heibon PUNCH』韓国特集! カバーは韓国人の若い女の子が明らかに挑発している写真。これが「韓国をなめとるんか!」と韓国のインテリの怒りを買ってしまった。そんなつもりは毛頭ない! 『平凡パンチ』はサブ・カルチャーを取材する若者雑誌だったが、創刊時からヌード写真はもうひとつの売りだったのである。女の子を美しいと思うのは世界共通だ。立派な文化だ。だけど、1985年当時は文化意識のギャップは激しく、国際騒動に発展しそうだった。
自分は特集の構成者として、制作者クレジットのトップに名前がおかれていたので、NHKのニュースを見た友人たちが「お前、殺されるぞ」と電話をかけてきた。結局、大事にはいたらなかったが、この号はNHKのニュースの力もあって、3日でソールドアウトという大ヒットとなった。売れ方が尋常ではなく、営業の人がいうには80万部だしても完売してたねという勢いだったらしい。一発で起死回生を果たし、石川次郎は次に新しく『TARZAN』を創刊すべく『PUNCH』を去っていった。
森永博志は社員編集者ではなかったし、編集部内の細かな事情(社内事情)を知っていたわけではないから、こういう書き方になっているのだが、だいたいマア、表面的にはこういうようなことである。森永は非常に優れた編集者だったと思う。彼は手広く仕事をしていて、面白いことをいろいろにやっているのだが、だからどうしたみたいなことを感じさせるところもあり、作家として見ると、この人はなにを表現したくて、こんなにもいろいろなことに手を出しているのだろうと思わせるところもあった。フリーランスだから頼まれたことはなんでもやりますということなのだろう。彼のブログを読むと、自己宣伝臭に辟易して、オレも気をつけなければと思う。人の悪口は出来るだけ書かないようにしないといけないから、これ以上の感想は書かないが、たぶん、トレンドが時間のなかで累積変質して、取捨選択されてトラッドとして文化に組み込まれていくということに対しての自覚が希薄なのではないか。韓国特集についての記述も、石川と森永ふたりで作ったように受けとられかねない書き方で、取材事情の内幕を省いて自分の自慢話のような筆致で書いている。私のことは私が自分で書くからいいが、言い出しっぺの船山直子や死ぬ思いで働いた安原相国の名前くらい書きそえてあげてもいいのではないか。
それで、この話はまだ、終われない。森永の文章にもちょっとNHKがニュースにしたというような話が出てくるが、韓国で大騒ぎになると、朝日新聞から電話がかかってきて、コメントを求められた。石川から「オマエが答えろ」といわれ、そのとき、「美しいモノを紹介しようと思っただけです。女優というのはその国の美意識の象徴のような存在だと思うんです」というようなことを言った記憶がある。
この後、私も石川次郎に連れられて、新雑誌の創刊に挑むことになる。
この文章は6年前、2018年の7月12日のブログに書いたものです。
森永は大活躍してくれた。正直、彼がいなかったら
、韓国特集はあそこまで面白くなったかどうか、わからない。
森永の死について、ニュースではこんなふうに書かれていた。
雑誌「POPEYE」「月刊PLAYBOY」などを手がけた編集者で作家の森永博志さんが死去したことを、おいでファッションデザイナーの森永邦彦氏が23日、自身のインスタグラムで報告した。邦彦氏は「〈伯父の森永博志の死去について〉生まれて初めて喪主を務めます。年の差30の伯父が横浜・伊勢佐木町で突然亡くなったからです。森永博志。享年75。告別式は4月24日(木)都内のお寺で営まれます」と告知。 続けて「昨晩、伊勢佐木町の自宅で亡くなっているのが見つかりました。死後数日がたっていました。身元を示すものはなく、行きつけの喫茶店の情報を手掛かりに身元確認を求める連絡が警察からありました。伯父は誰からも看取られることなく、逝きました。孤独死でした。いや、正確を期すなら孤立死でした。伯父は孤独では決してありませんでした」と記した。
いろいろなことを考えさせられる文面だった。
誰からもみとられることなく死んで、
死後数日してみつかったという。
死因は書かれていなくて、
葬式の写真が載っていた。
この記事を読んだだけでは詳しいことは何もわからないが
私はいまから15年ほどまえに渋谷のアパートで自殺してしまった
元平凡パンチの編集部出身で映画評論家だった
今野雄二さんのことを思い出した。
森永の場合はまさか自殺ではないだろうとは思うのだが。
亡くなった死因が書かれてなくて、
詳しいことはわからない。
もう一人の物故者はプロ野球、阪神タイガースのピッチャー
320勝をあげた小山正明さん。行年九十歳。心不全だったという。
阪神などで歴代3位の通算320勝を挙げた小山正明さんが18日午前、急性心不全のため、都内の病院で死去したことが分かった。90歳だった。葬儀は故人の遺言により、家族葬で執り行われた。
2018年にはタテジマをまとって名球会の始球式にも登場 マウンドでのオーラはやはり別格だった
兵庫県出身の小山さんは高砂高から53年にテスト生として阪神に入団。翌54年には11勝を挙げるなど活躍し、主戦投手に。「精密機械」と言われた抜群の制球力を武器に、62年には27勝を挙げ優勝に貢献した。
私はこの、1962年の小山さんのマウンドでの闘いぶりを
ノンフィクションで『死闘』という小説にしている。
小山さんは実直で、じぶんのことを飾り立てて言わない、
立ち姿の美しい人だった。
阪神がリーグ優勝を果たした昭和37年の全試合を克明に記録した、阪神ファンにはたまらない一冊である。いや、阪神だけではない、セ・リーグの全試合の記録がすべて網羅されている。記録の合間に当事者たち、小山正明、吉田義男、稲川誠、安藤統男等へのインタビューが挿入され、臨場感を際立たせる。それにしても読後につくずく感じたのは、当時の投手たちが如何にタフであったかということだ。連投など当たり前、2日間連続完封したり、ダブルヘッダー(今では死語だ)で2勝したりと、今では考えられないエピソードの連続だ。どのチームのエース達も、年間60試合、300〜350イニング投げていたのだ。ボールが今ほど飛ばなかったのかもしれないが、とにかくこの数字にまず驚く。当時はパの試合も結構TV中継していて東映の試合はよく見た記憶があるが、阪神はあまり見ていない。それでも無表情で淡々と投げる小山正明、対照的に全力投球する村山実の姿は鮮明に憶えている。この年、阪神は大洋と大接戦の末に優勝した。小山と村山の大車輪の活躍ぶりが手に取るように伝わってくる。小山の13完封という記録など、今ではとても考えられない。この両エースの色々な意味での違い、不仲説の真相も面白い。著者がやや小山に肩入れしているように見受けられるが、これは小山に実際にインタビューしてその人柄に惹かれたからのようだ。
アマゾンの書評にこんな文章があった。
あの本(死闘)は自分が一番エネルギーがあった時に書いた本だった。
昔の仕亊仲間が亡くなったというニュースを読むのは辛い。
いしだあゆみさんの時もそうだったのだが、
自分の中の無惨な気持ちをなんとか
記緑しておかなければと思い、これを書いている。
亡くなられて、あの世にたどり着いて、
そこで、懐かしい仲間たちにであっているのだろうか。
二人の死者の冥福を祈る。私にできるのはそれだけ。
森永の話をもっと聞いてあげれば良かったと思う。
私も自分のことで手一杯になってしまっている。






