あこがれて芸能記者になったのだが、
いしだあゆみさんにあっという間に愛想を尽かされた。
その話。
いしだあゆみさんの話のつづきである。いまから55年前、
1945年の春4月、大学を卒業して、
大衆娯楽雑誌の編集者になった。
いまはもうないが月刊『平凡』という雑誌。
当時、百万部に近い発行部数を持つ、芸能界の
若い人気ものたちを集めてつくる雑誌だった。
きれいな人だった。
編集部に配属になって、いろんな取材テーマを割り振られ、担当させられた。
タレントは分担制になっていて、わたしはフォーリーブス、森ケン(森田健作さん)、ピーター、吉沢京子ちゃんの担当になった。取材ジャンルでは日本映画、テレビ、旅行などである。そのほかに男女の問題、セックスの話も担当させられた。
新入社員、新米編集者のわたしは、何でも「シオザワくん、これやってくれないか」といわれるのが素朴にうれしくて、黙って何でも上司の言うことを聞いていた。セックスに関することだって、当代一流のドクトル・チエコさんとか奈良林祥さんのような人たちに話を聞きに行き、いろいろと教えてもらえるのだから、それもうれしかった。これは、いま考えてみると、要するに、ほかの編集部員がいやがる、そういう性関係の頁も全部、アイツにやらせよう、ということだったのかも知れない。
また、このとき、雑誌が一時期の大台である100万部から大きく部数を減らしていて、70万部くらいのところで苦戦していたのだが、当時のオレは新入社員で新人編集者だったが、会社にとっては〝何でもやっちゃう、恐いもの知らずの新兵器〟みたいなものだったのかも知れない。それで、和田アキ子さんの取材の話である。
この取材のあと、わたしは三年くらいホリプロに出入り禁止になるのである。
ことの発端は、ある日、副編集長に呼ばれて、「シオザワ、夏の特大号で勝負に出ようと思うんだけど、お前にこれをやってもらいたいんだよ」と、特別指名でやってくれと、ある企画を頼まれたのである。それが「真夏の初体験特集、人気アイドルの初めてのセックス」という、なんというか、ものすごいどぎついテーマの企画だった。ただ、編集部のなかを見わたして、編集部員は十二、三人いたが、「身体の相談室」とか「読者の性体験小説」とか「かわいいあの子にエッチ質問」とか、その手の企画は全部、オレがひとりでやっていたから、この企画がオレに回ってきたのは当然といえば、当然だった。
それで考えた。とにかく、企画の中枢をになう人気タレントが少なくとも三人くらいはいなければ体裁にならない。あとは、なんでもいいから出たい、お笑いタレントとか、全くの新人とか、ポルノ女優とか、ヌードモデルのような、そういうことを売り物にしているタレントを五.六人取材すれば、何とかなると思った。それで、誰に取材するか、いろいろに品定めをしたのである。
オレがこのときに取材対象の人気タレントとして、目を付けたのが、フォーリーブスの江木俊夫と、日活映画の『ハレンチ学園』の主演女優の児島みゆき、それからホリプロからデビューして、なんとなくほって置いたら消えてしまうかも知れないエッジのヘンでウロウロしていた、そのころはもうひとつぱっとしなかった和田アキ子だった。
フォーリーブスの江木はグループ四人の中でも一番の発展家で、女好きで、そのころも女性週刊誌でフランス人歌手のダニエル・ビダルと噂になったりしていた。オレも江木と仲良しになって、彼が童貞を捨てたときの話を聞いていたので、それをそのまま、事務所の許可とかもらおうとしたら絶対にOKがでないので、無断でその話のコメントを作って載せてやろうと思った。そのころのトシ坊はフォーリーブスの四人の中で一番不人気だったのだが、ジャニーさんはトシ坊の女遊びだけはしょうがないと思っているようなところがあって、ジャニーさんはその分、コーちゃん(北公次)やター坊(青山孝)の人気が出ればいいやと思っているようなところがあった。
児島みゆきちゃんは映画の『ハレンチ学園』の撮影現場に取材に行って仲良くなった。知り合った後で、スポーツ新聞の記者から電話がかかってきて、「児島みゆきさんが
塩澤さんのことを理想の男性だって言っているんですけど、お付き合いしてるんですか?」と聞かれた。
そんなことがあったあと、編集部に電話がかかってきて「いま銀座に来ているのだけど、忙しい?」と聞かれたりした。そこから先をはっきり覚えていないのだが、ふたりで銀座で待ち合わせたかも知れない。そういうことがあったので、これは、こういう取材でも受けてくれるなと思って会いに行って「みゆきちゃんのこと大好きだよ」とかいいながら、こういう企画をやんなきゃいけないんだけど、夏の海に遊びにいって初体験したっていう話を作っていいかと聞いたら、彼女は「あとでお父さんに怒られると思うけど、シオザワさんがその取材をやんなきゃいけないんだったらいいです」とOKしてくれた。
それで、最後は和田アキ子さんである。ただ、所属はホリプロだから取材に対するガードは堅く、性体験の取材だなどといったら、絶対に取材許可が下りない。それで、いろいろ考えた。そのころの和田さんは、ホリプロの新人はいまでもそういうところがあるが、未完成のままでデビューしたような雰囲気の歌手だった。和田さんにもこの取材の前に、編集部に新曲発売の挨拶回りだったか、違う取材で出会っていて顔見知りだった。そのころの本人は図体はでかく迫力はあるのだが、なんとなく垢抜けない、がさつな感じの女の子だった。
彼女はデビューして三年目に入ったところで、前の年に発売した『どしゃ降りの雨の中で』がオリコン19位、この年(昭和45年)の3月に発売した『笑って許して』で勝負をかけている最中だった。
この曲はけっきょくオリコンで11位まで行くのだが、上昇はそこまでだった。このころの彼女はランクとしては二線級の歌手で、このあと歌手として、やっていけるかどうかの微妙な瀬戸際にいた。『平凡』は百万部近い部数出ている雑誌の取材だから、担当のマネジャーとしてはどんな小さな取材でも受けたいところだった。わたし自身はそういうことをあまり意識したこともなかったが、これは何年かして編集部を異動になったあとから知ったことだが、芸能プロとかタレントたちにとっては『平凡』に載せてもらえるかどうかはマネージメントの死活問題みたいなところがあったらしい。そのくらい力のある雑誌だった。
それでわたしはここでまたまた悪知恵を働かせ、取材を断られないように一計を案じて、初体験特集ではなく、初恋特集ということにして、初めての恋の想い出を聞きたいと取材を申し込んで「平凡さん、ありがとうございます」といわれて、NET(いまのテレビ朝日)の歌番組の楽屋でインタビュー時間を30分くらいもらえることになって訪ねていったのである。そしたら、都合の悪いことに楽屋がいしだあゆみさんといっしょだった。しまったと思ったが、取材をしないわけにもいかず、あゆみちゃんに「こないだはどうも」とかいいながら、アッコの取材をやった。
一番最初に初恋の想い出を聞いた。それから、覚悟を決めて話題をエスカレートさせて、「キッスしたことある?」とか、本題の「初めてのセックスは誰と? 何歳の時?」とどぎつく聞いた。このとき、マネージャーも同席していたかどうかの記憶がないのだが、相部屋で同席していたことになるいしだあゆみが取材の様子を聞いていた。
和田アキ子は最初機嫌よくわたしの取材にこたえていて「いちばん最近、キッスしたのは姪の赤ちゃんとです」みたいなことを言っていたのだが、露骨にセックスの話を聞き始めたら、たちまち、調子が重くなって、「えーと、えーと」と口ごもり始めた。この間のやりとりをオレもはっきり覚えていない。この前後のこともよく覚えていないのだが、そばで話を聞いていたあゆみちゃんがアッコに助け船を出してきて「着替えたいので終わりにしてくれますか」といい出して、オレは楽屋を追い出された。
そのあと、マネジャーから「シオザワさん、ひどいじゃないですか。彼女にあんな質問しないでくださいよ」と怒られた。曖昧にごまかして帰って、聞いた話をまとめようがないので、「高校生の時に好きになったのは、同級生の****、初めてのセックスはわたしの大事な秘密です」みたいな他愛のない原稿を書いて、当初の目的通り、アッコを初体験特集のメンバーのひとりにして頁を作った。それでわたしはホリプロから「もうシオザワさんにうちのタレントは取材させない」といわれて出入り禁止になるのである。
この取材はわたしにこの企画をやれといった副編のガンさん(岩永康)には「お前、よくこの企画作れたな」といってもらえて褒められたが、ホリプロにも怒られたし、ジャニーさんにも怒られ、児島みゆきちゃんには「シオザワさんのことが嫌いになりました」といわれた。もちろん、アッコの取材現場にいたいしだあゆみさんにも嫌われた。いしだあゆみさんはそもそも、このころのわたしの[憧れの女ベスト1]だったのだが、仕事だから嫌われるのも仕方ないと思った。正直に「性体験の話をしてください」と取材申し込みしてもOKしてくれるはずがないのである。
ウソつきでひどい取材だったが、ホリプロからは「ウチのタレントをそういう記事に載せないでくれ」とは言われなかった。プロダクションもこういう記事の持つ強い力を知っているのである。
わたしがホリプロといっしょに仕事するようになるのは、週刊誌に異動になってからのことで、「シオザワさん、シオザワさん」といって慕ってくれるマネジャーも現れ、ここで和田アキ子さんの記事もお正月の特別対談(対談相手は中尾ミエだったと思う)とか、何遍も取材もさせてもらった。そのころにはあのときの〝性体験インタビュー〟は懐かしい思い出話になった。いつだったかはっきりした年代は忘れたが、70年代の後半に和田アキ子の誕生パーティーに呼ばれ、ビールの早のみ競争に参加して優勝したことがある。一方、いしだあゆみさんはそのあと、足を洗って歌手を辞めてしまい、テレビ局の歌番組の楽屋などで顔を合わせることもなくなった。女優になってしまったのである。わたしもまた、別の雑誌の編集をやることになり、芸能記者の世界から足を洗った。
アッコにはいつまでも元気で活躍してほしいと思っている。それにつけても、ホリプロというのは独特の根性を持ったいいプロダクションだな、ということも思う。彼女もホリプロ所属の歌手でなかったら、こンなに充実したタレント人生は送れなかったのではないか。
女優になってからのいしだあゆみは繊細な女の感情をごく自然に表現できる、
私たちの世代では稀有の映画俳優になったが、私にはとうとう会う機会がなかった。
「ブルーライト・ヨコハマ」は歌手として
の彼女の最大のヒット曲だった。
いしださんは痩せているせいか、いつも不幸の影を背負って生きている、
そういう女を演じたら、この人の右に出る女優はいなかった。
最後はひとり暮らしをしていて、妹の石田ゆりさんに看取られたという。
無念の思いと共に、彼女の冥福を祈る。
Fin.



