帯津良一先生(医師、ホリスティック医学の第一人者)の講演録での本の紹介は
①青木新門「納棺夫日記」、②ベルクソン「哲学的直感」、③アナトール・ブロイヤード「癌とたわむれて」の3冊であった。②と③は飛ばし読み。

①「納棺夫日記」は10年程前出版されて、少なからぬ話題になったそうだが気が付いていなかった。
読んでみると 情緒的であって論理的、加えて神秘な世界に科学の薬味が添加されており、ロマンに満ちた美しい風景が展開する書。

 青木新門は詩人であるが飯が食えずに葬儀会社に就職して納棺の業務に従事する。
食うため仕方なしに仕事をこなしている内に、死者が放つ「光に」出会う。この真実を求めて詩人新門が「光」の旅に出る。最初に向かったのは本業の詩・小説の世界だった。
 
 断章風に書かれている構成で 「とうとう、みぞれが降ってきた」 等と裏日本の風景に始まる章が多くあるが、
例えばその「みぞれ」は、賢治の詩 「決別の朝」 に溶けていく。 あの 「けふのうちに とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ」 にある 「みぞれ」 であるの詩である。
 高見順、金子みすず、死の宣告を受けた医師井村和清の詩にも訪問している。これらの詩人達は「光」を見てた。

 この見えない「光」を求めて 次は宗教の世界に。新門の目に映るのは、オカルト、アニミズム、現代の堕落した仏教等々の宗教であるが、これらを厳密に篩(ふるい)にかけていくと、親鸞がひたすら説く「不可思議光」こそが探している「光」ではないかと確信していく。
世間に溺れない新門の率直なまなざしが、読むものを納得させながら、旅が続く。 

 現代人が信じない「光」。だけど確かに存在する「光」。この正体を科学で証明出来ないだろうか。
旅は科学の国にも立ち寄る。ここで 「科学的でない宗教は盲目である 宗教のない科学は危険である」というアインシュタインにも出会うが、解明の手掛かりを更に分子生物学、医学、宇宙物理学、量子論の世界にも踏み込み、もう一歩のそれらしい発見の兆候があるものの、まだ正体は掴めない。

不可思議な光=神 この旅はどこに行くのだろうか?
「論じ得ないことについては、ひとは沈黙しなければならない」(ウイトゲンシュタイン) のだろうか? 
しかし、鍼=気の世界で碌を食む我々は 光=神に もう一つ=を付けて 光=神=気 と考えてはいけないだろうか?我々も気の旅人として、歩き続けなければならない。


雪を殆ど見ることのない、関東地方に在住しているが、

冬になると雪が恋しくなって、雪国に飛んでいってしまう。


雪の白さそのものが美しいのか、

他とのコントラストが妙なのか、

雪が全てを覆い隠す場面でその下にある醜悪なものを

敢えてリアルに想像しても、尚美しいのはなぜか。


雪の動詞は(汚れを去って)きれいにする、

つまり「すすぐ そそぐ」の意味があります。

(雪辱は「恥をすすぐ」こと)


西行は、以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、

陰暦2月16日、

釈尊涅槃の日に入寂したといわれているとのこと。

享年73歳。


ねかはくは 花のしたにて 春しなん 

そのきさらきの もちつきのころ (山家集)


ねかはくは はなのもとにて 春しなん 

そのきさらきの 望月の比 (続古今和歌集)

 

この場合の花とはもちろん桜のことで、

西行はこのように「花」とうたいましたが、


僕はこれを「雪の中」と書き換えたいと思っています。