雪太郎の「万葉集」

雪太郎の「万葉集」

私なりの「万葉集」解釈
カレンダー写真は「鴻上 修」氏撮影

あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(巻1 20 額田王)

 茜色のかかった「紫」の生い茂る「標野」を往来し、あなたが(私に)袖を振るのを野の番人が見てしまうのではないかしら

 「あかねさす」は(紫の枕詞)。「」は根を染料にしました。「標野(しめの)」は(一般人の立入りを禁じた御料地)。「袖振る」は「魂(たま)振り」で(霊魂の持つ力を相手に送る行為で、別れる時に「さようなら」と手を振るのはこの行為の名残と理解しておりました。しかしネットで検索していたら私の記憶とは逆に(相手の魂を呼び寄せる呪術的な求愛行為である)との解説を目にいたしました。私は専門家ではないのでそちらの解説の方が正しい可能性が高いと思われます。「野守」は額田王の夫である「天智天皇」をたとえたもの。

紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻故に我れ恋ひめやも(巻1 21 大海人皇子)

 紫草のように色美しく艶やかな君、そなたが気にそまないなら人妻と知りながら恋焦がれたりはいたしません

天智七年(668年)、蒲生野(琵琶湖の東南)に遊猟にでかけた時の歌。「紫草(むらさき)」は(にほふの枕詞)。「憎し」は現代語とは違い「憎悪」の感情は弱く(気にそまない、不快である)意味で使われ、しばしば「憎からず」と好ましい意味で用いられました。

大海人皇子は後の「天武天皇」(諡)です。この時は、皇太子でしたが、後に明日香の清御原(きよみはら)で即位しました。

 兄弟である「天智天皇」「天武天皇」と「額田王」の関係を思い浮かべてしまいますが、この歌は猟の後の(宴の座興)として詠まれた歌で現実とは無縁だそうです。

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(巻1 18 額田王)

(神々しく、いつも見たい山である)三輪山をどうしてこんなに隠すのか。せめて雲だけにでも思いやりがあってほしい。隠したりしてよいはずがない。

 「だに」は(せめて~だけでも)。「なも」は願望の助詞「なむ」の古形。「や」は反語。

長歌では、三輪山を「つばらにも見つつ行かむ」「しばしばも見放(さ)けむ山」と詠っております。「つばら」は、現代語の「つまびらか」で(詳しく)、「見放く」は(遠くから見つめる)意味。長歌の脚注から「道の隈(曲り角)」は(邪神が籠る所)と考えられていたことを知りました。

 天智六年(667年)3月に都が「近江」に遷されました。

綜麻形(へそかた)の林のさきの さ野榛(のはり)の衣に付くなす目につく我が背(巻1 19 井戸王)

(三輪山の林の端の榛の木がくっきりと衣に染みつくように、目にしみつく愛しいあなた)

「綜麻形」は(三輪山の異名)。「榛」は(ハンノキ)で実や樹皮を染料に利用しておりました。

この歌には三輪山周辺に残っていた「古歌」が詠まれていて、(国を去る惜別と鎮魂)の意味があるそうです。

「付くなす」の「なす」は補助動詞で(ことさら~する、巧みに~する)の意味で使われます。

冬こもり春さり来れば鳴かずありし鳥も来鳴きぬ 咲かずありし花も咲けれど 山を茂み入りても取らず草深み取りても見ず 秋山の木の葉を見ては黄葉をば取りてぞ偲ふ 青きをば置きてぞ嘆く そこし恨めし秋山我れは (巻1 16)

 春が来れば鳥も来て鳴き花も咲く 山が茂り草深いので手に取って見ない 秋山の黄葉は手に取って愛でるが青葉は捨て置いて嘆息する それが恨めしいのです 秋山の(青葉の)ような私です ※「そこし」の「し」は強意の副助詞。

 近江の大津宮で即位した「天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)」(中大兄、後の天智天皇)が内大臣の藤原鎌足に詔(みことのり)して 春山の万花の(におい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時(の漢詩)に対して「額田王」が「倭歌」で応じた(判定した)歌

 「冬こもり」は春の枕詞。「花鳥風月」といいますが、この歌は「鳥」と「花」を対として詠んだ最初の歌だそうです。訪れて来てくれない中大兄に対して「額田王」が愚痴るように詠んだ歌と解釈いたしました。逆に深い愛情を感じます。

「天智天皇」は、生前の徳に因み死後贈られた「(おくりな)」であることを知りませんでした。死後は、本名は「忌み名」の意味の「(いみな)」として使用を控えたそうです。

香久山は畝傍を惜しと耳成と相争ひき 神代よりかくにあるらし 古(いにしへ)もしかにあれこそうつせみも妻を争ふらしき

(巻1 13)

 反歌

香久山と耳成山と闘(あ)ひし時立ちて見に来し印南国原(いなみくにはら)(巻1 14)

大和三山」の三角関係を詠んだ面白い歌。この歌では「畝傍山」が女山で「香久山」と「耳成(梨)山」が男山ですが、「香久山」が女山で「畝傍山」と「耳成山」が男山の歌もあります。いずれにしろ一人の女性を妻にするため二人の男が争う歌です。

 今もあることを神代からの事として説明するのは「神話の型」だそうです。「印南国原」は明石から加古川あたり。

「播磨国風土記」に出雲の「阿菩大神」が、御輿をあげて見に来たが播磨国揖保郡上岡里まできたところで「三山の争い」がやんだことを知りそこに鎮座した話が記されているそうです。

海神(わたつみ)の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ(巻1 15)

(海神のたなびかしたまう豊旗雲に今しも入日がさしている。今夜の月世界はさわやかである)

という歌が、続けて反歌として載っているのですが反歌としてふさわしくないので載せた理由は不明です。

 「闘う」を(あふ)と読んでいますが、辞書で調べてみると「逢ふ・合う・会ふ・遭ふ」などの「あふ」も「対象や障害に対抗して負けまいとする気持ちを表わす」のが原義だそうです。

 中皇命(なかつすめらみこと)、紀伊の温泉に往す時の御歌

君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな(巻1 10)

 君の命も私の命も支配している岩代の岡の草根、この草根を結びお互いの命の幸を祈りましょう

「中皇命」は(間人皇女)と思われます。君は「中大兄皇子」。「代」は(寿命)、「知る」は(支配する)。岩代は(和歌山県日高郡みなべ町)。「草根を結ぶ」は(草と草を結び合わせ、そこに霊魂を込めて互いの心が永久に離れないように祈ったり、旅の安全や幸運を願う儀式の様な行為)です。「結ぶ」は神道における「むすひ(産霊)」の概念に由来し、(神霊を生み出す霊的な力を持つ行為)とされます。「草根」の「根」は接尾語で「根」の意味はなく「根」そのものを指すそうです。

我が背子は仮廬作らす草(かや)なくは小松が下の草を刈らさね(巻1 11)

 我が君は仮廬をお作りになる。佳きかや(茅、萱)がないなら小松の下のかや、あのかやをお刈りなさい、そうすれば穢れなきめでたい一夜を過ごせましょう

 松は常緑樹であることから(長寿で強い生命力を持っている)と考えられておりました。この歌は(松の霊力)を授かって旅の無事を祈った「呪術歌」のようなものであるとの考え方もあります。

我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾(ひり)はぬ(巻1 12)

 私が見たいと待ち望んでいた野島は見せていただきました。しかし底深い阿胡根の浦の珠(魂)はまだ拾っていません

 「野島」は、和歌山県御坊市南部の島です。見通しがきく地で航海の安全を祈る場所でした。「阿胡根」の場所は未詳です。「玉を拾う」は当時真珠の様な丸い玉には霊力が宿ると考え身に着ける習俗がありました。「玉を拾う」の「玉」は(魂)であり(命や長寿を拾う)意味を持ちます。

 斉明天皇が、斉明四年(658年)10月15日から2ケ月半「白浜湯崎温泉」に行幸された時の歌。中皇命が「斉明天皇」の立場で詠んでいます(本人が詠んだ御製歌であるという説もあります)。