東日本大震災から14年が経ちました。「3.11」を迎えると当時の記憶がよみがえってきます。かつて経験したことのない大地震でした。

 今でも頭に残っているのは、当時、磯辺地域をまわっていて、ちょうど海浜病院の近くにいました。大きな揺れで立っていることもできず、電柱にしがみついているのがやっとの状態ですが、いま思うとそれも危険だったと思います。長い揺れでしたので、いつ揺れがおさまるのかもわからない状況でした。
 やっと揺れがとまりましたが、周辺の住宅から悲鳴とともに外に避難した方、家族やご近所の安否を確認し合う住民のみなさんが肩を寄せ合って道の真ん中に居ました。

 磯辺の戸建て地域では液状化現象が起こり、水がどんどん湧いてきている状況で、いっしょにいた党員の方に液状化している状況を確認してもらって、私自身は事務所に向かいました。この後、磯辺地域では砂の噴出とともに家屋が傾いていき、大きな被害に見舞われました。
 事務所に戻ると近くの公園も避難場所になっていましたが、ここも液状化現象で水が出てきて水溜りになり、公園の中に入れない大変な事態になっていました。稲浜公民館付近の電柱は傾いて、道路は通行止めになった状態でした。

 さらに私の住む団地の自治会の役員さんと一人暮らしの高齢者を訪問すると、怪我などはないものの、中は家具が倒れてガラスの破片が散らばり、悲惨な状態になっていました。自治会が繋がっている高齢者を訪問し安否確認をしてまわりました。
 これが3月11日のことです。その後はご承知のように、スーパーから水や米、食料品が消えて、ガソリンを給油する車でいっぱいになっていたり、新港地域の道路も液状化で通行ができない状況も続きました。

 それからはインフラの復旧とともに、数年がかりの液状化対策に向けた各地域の取り組みが始まり、磯辺3丁目の地域、磯辺4丁目の一部の地域で地下水位低下工法の実施に至りました。だいぶ端折ってしまいましたが、東日本大震災からの復興は長期にわたりました。
 いまのなお多くの方が、特に福島県に帰ることができない避難者がいることに胸を痛めています。さらにその後の各地での大規模地震の支援に入る中で、また地域自主防災会の役員、会長を務める中で防災・減災の取り組みの強化について取り組むことを決意しました。