トラッシュマスターズ作品の大きな特長の一つは、タイムリーなテーマ設定にある。社会問題の暗部が現実と同時平行で舞台上に具現化される。過去には有事法制や表現の自由なども取り上げられた。今回は「入管収容所」。21年3月のスリランカ人女性死亡事件を受けて採決が見送られた、入管法改正案は今国会に再び提出された。難民申請中の母国送還を可能とする内容は維持されたままだ。事件の記憶が薄れつつあるタイミングでの提出には過ちへの反省など微塵も感じられない。劇作家中津留章仁の怒りが作品に滲む。

 ウィシュマさんは、名古屋入国管理局に収容中に病気を訴えながら、適切な治療を受けられずに死亡した。事件は社会に大きな衝撃を与え、人権を無視した入管の実態が浮き彫りになった。とはいえ、遺族に監視カメラの画像が開示されるなど一端だけで、入管という組織は依然として深い闇の中に閉ざされている印象だ。

 本作は、収容外国人と家族・支援者・入管側の三者が同じ場所に出入りする様を通じて、収容者2人が理不尽な最期を迎えるまでを描く。

 急病の収容者を救急搬送する冒頭は、いきなりの熱量。決して捕縛器具を外さない入管側と、人命第一で外せと迫る救急隊の攻防はスリリングだ。

 その直後に入管の次長(藤堂海)がスタッフから報告を受けるシーンは、入管側の思想信条を象徴的に示し、観劇者にとっての指針になった。いわば性悪説。収容者は逃走や仮放免への計略を常に狙う。だから、彼らの言動を信じないことが大事だという歪んだ使命感だ。

 そうした考えは入管の隅々まではびこる。収容者の訴えはことごとくはねのけられる。正当性など問題ではない。彼らの言葉は常に不当なのだ。

 新聞記者(清水直子)や支援団体代表(星野卓誠)、個人支援者(石井麗子)らが訪問し、実態を見聞きするうちに、理不尽さへの怒りが爆発する。俳優座の清水と文学座の石井は、われわれ一般市民に近い視点でストレートな感情を見せてくれた。芝居をけん引した立役者だ。

 そしてもう一人、この芝居の肝となる存在は、中間管理職の主席処遇担当藤枝(長谷川景)だ。当初は組織に従順さを示していた彼は、実態を目にして支援者らの言葉を聞くうちに、人間的な心の揺らぎを見せ始める。局長(井上裕朗)や次長への反発心がもたらすパワーは、物語の推進力となる。彼はいわば我々の代弁者に変貌したわけだ。

 彼のような思いを抱く入管職員は、もしかしたらたくさんいるのかもしれない。苦しむ人間を前にして手を差し伸ばそうと思っても、上の指示に抗えず、葛藤しながら日々の業務を黙々とこなす。そうした一人一人の言動の積み重ねによって見過ごされた日常が、重大事件を生んでしまったのだろう。

 物語の絶対悪ともされる局長と次長の2人には、支援者らとは逆のベクトル(冷めたと言えばいいか)でやりきって欲しかった。官僚的なふてぶてしさ、追及を巧みに交わす狡猾的な説得力が物足りない。感情が透けて見えてしまったのは残念。そこを抑えて演じてこそ、入管という組織の異様さがより立ち現れたのではないか。

 病死、自殺、日本人妻や子どもたちとの別れ。三者三様の運命を待つ収容者たちの姿からは無力感が溢れる。平和で安全とされる国の片隅で、こんな人権無視の現実があるのかと改めて強い憤りを感じた。

 収容者の息子が学校で「犯罪者の子どもと言われ苦しんでいる」という声も印象深かった。決して塀の向こう側だけの他人事ではない。われわれの身近で起こっている差別的な言動が、苦しみの上塗りをしている現実に目を向けなければいけない。