こんにちは、yukiです。
植物の牧野富太郎さんを知っていますか。
私は、花が好きなので、知っていますが、昔の人なので、
あまり知られていません。
「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っています。
彼の人生は経済的にも没落し、挫折の連続であった。
何年か前に、高知にある牧野記念植物園に行ったときに、植物図鑑以外に
彼の生き方を知る機会を得ることができた。
牧野富太郎は、高知の酒屋のあととり息子であった。
植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。
22歳の時には東京帝国大学理学部植物学教室に出入りするようになり、やがて25歳で、共同で『植物学雑誌』[を創刊した。その後、26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。今で言う植物図鑑のはしりである。
それから牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。
植物採取は、現地まで行き採取するため、お金もかかった。
彼の植物の標本の分類は、日本ではまさにだれも手がけたことのない領域。
植物採取と、標本整理、植物画作り、と時間を惜しんで格闘した。
27歳で新種のヤマトグサに学名をつけ、『植物学雑誌』に発表した。1890年(明治23年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中にみなれない水草を採集する機会を得た。
これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。
31歳で帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。
その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。
ただ、学歴の無いことと、業績もこのためあまり認められず、厚遇はされずにいた。
牧野のライフワークは、現地での観察・採取を一番大事にしていて、
大学の先生との違いは大きかった。
このため、牧野が次々新種を発見するのが、教授がその仕事を認めたがらず、
彼の挫折もこのため深かった。
それでも、やっと51歳で東京帝国大学理科大学講師になった。
65歳で東京大学から理学博士の学位を授与され、同年に発見した新種の笹に翌年亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。
78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。
その図鑑は、植物の特徴を示すため写真でなく、植物画で示され、一目でその特徴がわかる。私も時々、図書館で見ることがある。
1950年日本学士院会員に、1951年には文部省に牧野博士標本保存委員会が設置され、第1回文化功労者に。1958年、91歳の時東京都名誉都民となりました。
1957(昭和32)年、1月18日にその生涯を終えた。95歳でした。
そして死後に、文化勲章が授与された。
95年という生涯、多くの著書、標本などを残し日本の植物学に多大な業績を残した。
晩年になり、牧野の業績は認められたが、それまではずーと、一人でコツコツと
好きな植物の分類に明け暮れていた。
自分の好きなことを生涯やりぬき、幾多の挫折に会いながら、彼は希望を捨てなかった。
牧野は好きな植物のため、自分の人生を捧げた。
彼の愛情溢れる植物への言葉を紹介いたします。
「花は黙っています。
それなのに花はなぜあんなに快く匂っているのでしょう?
思い疲れた夕など、窓辺に薫る一輪の百合の花をじっと抱きしめてやりたいような思いにかられても、百合の花は黙っています。」
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