白洲次郎。


この人、高貴で、破天荒で、原理主義者。一度決めた原則は曲げません。

時の首相でもお手上げ。


今こんな人がいればすぐに、日本を預けたいです。


yukiの感動マインド作り

田中角栄でも)果敢に挑みひるむことがなかった。


日本の行く末を心から思って戦後の国の方向付け、産業を輸出主導型へ

転換させるべく、通産省を設立。電力事業の再編等に尽力したが、表舞台

に立つことはせず、常に黒子に徹することを忘れなかった。


英国留学で身に着けた教養・思想から、彼自身による"principle"(原則)

持つことを是とし、筋が通っていないことをすればどんな権力者でも

(マッカーサーでも英国から学んだ“noblesse oblige (高貴の義務・・・地位の高い者はその地位において社会的義務を負う)"という思想・精神を持っていた。

英語は“オックスブリッジアクセント”と呼ばれる英国のオックスフォード、

ケンブリッジ大学出身者だけがしゃべる英語(上流階級の間で相当な

待遇を受けるような英語)を流暢にしゃべっていたが、日本語になると

途端につっかえて下手な日本語になっていた。  これはご愛嬌。

この田舎に引っ込むというのも、英国流の“カントリー・ジェントルマン"


:田舎にはいるが常に中央の政治に目を光らせ、いざという時には中央に

出向き、彼等の姿勢を正す)という思想のなす業で、財はあってもそれを

実行することができる、崇高な精神の持ち主だった。


オックスフォードで徹底した紳士教育


大正十年、中学を卒業した次郎はイギリスに渡り、大正十二年には

ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学、生涯の友ロバート C. ビンと

出会います。



ストラッフォード伯爵家の御曹子です。


車好き、英語でいう「オイリー・ボーイ」で、次郎の車熱に拍車がかかりました。

ベントレー、ブガッティを所有し、週末はレースに熱中。

ロバートとベントレーで長い旅行にも出ました。

一方、寄宿舎では英国流の紳士道を徹底的にたたきこまれます。


昭和三年、家業が倒産したため帰国。翌年、正子と結婚します。

倒産の影響で、次郎の肩には十人以上の家族の生活がかかっていました。

にもかかわらず、英字新聞の記者、英国商社、それから日本の貿易会社と、

職業は安定しません。


吉田茂に見出され表舞台へ登場


「そういういわば風来坊的人間に、目をつけたのが吉田茂氏である」と正子は

言います。吉田茂は終戦直後の内閣で外務大臣に就任すると、直ちに次郎を

中央で終戦連絡の事務に当たらせます。GHQの矢面に立たせたわけです。


占領下でありながら、言うべきことを堂々と主張する次郎に、GHQ側は

ほとほと手を焼いたようです。本国には「従順ならざる唯一の日本人」と

報告しています。


「プリンシプル、つまり原則に忠実である」という信念が彼を、動かした。


この続きは、次回をお楽しみください。

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