こんにちは、yukiです。


前回の葛飾北斎(1)の続きです。


人を怒らしてばかりいる北斎。

挙句は、将軍嗚前で、鳥に絵を描かせて、

将軍を「うーー」とさせることまでやる北斎。


しかし、北斎は今までの経験、引越し、改名を全部肥やしにして、

新たな絵に挑戦する。


これが、70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』。

北斎芸術の頂点である。


これらの絵が、70歳を過ぎた老人のものとは、とても思えません。

色彩、構図、人の生活のイキキらしさ、全てに秀でて、

人の心を撃つものばかりです。



その卓越した構図、デッサン力は、日本ばかりでなく、西洋へ大きな影響を与えた。


50代前半に初めて旅に出た際に、各地から眺めた霊峰・富士にいたく感動し、その後何年も構図を練りに練って、あらゆる角度から富士を描き切ったもの。


画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされ、荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士が覗くこともあり、まるで富士を中心に宇宙が広がっているようだ。


北斎の代表作として知られ「凱風快晴」(通称:赤富士)や「神奈川沖浪裏」が特に有名。


「神奈川沖浪裏」は、それを見たゴッホが画家仲間宛ての手紙の中で賞賛したり、そこから発想を得たドビュッシーが交響詩『海』を作曲したりと、

その後の西欧の芸術家に多大な影響を与えることとなった。


波頭が崩れるさまを常人が見る限り抽象表現としかとれないが、ハイスピードカメラなどで撮影された波と比較すると、それが写実的に優れた静止画であることが確かめられる。




yukiの感動マインド作り


私が一番好きなのが「神奈川沖浪裏」で、この構図それだけですばらしいの一言です。

ここに


“北斎と言えば富士、富士と言えば北斎”


が確立する。


その後も北斎は富士を描き続け、74歳で『富嶽百景』を完成させる。

そのあとがきに言った。


「私は6歳の頃から、ものの姿を絵に写してきた。

50歳の頃からは随分たくさんの絵や本を出したが、よく考えてみると、

70歳までに描いたものには、ろくな絵はない。

73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。

だから80歳になるとずっと進歩し、

90歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、

100歳になれば思い通りに描けるだろうし、

110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。

どうぞ長生きされて、この私の言葉が嘘でないことを確かめて頂きたいものである」。

だが『富嶽百景』を刊行した頃は、人々の興味は30代の若い天才絵師、広重の風景画に移っていた。


北斎の人気に陰りが見え、再び借金が増えていく。

そこへ天保の大飢饉が起こり、世間はもう浮世絵どころではなくなった。

老いた北斎は最初の妻、2度目の妻、長女にも先立たれ、

孫娘と2人で窮乏生活を送る。


79歳の時には火災にあい、まだ勝川春朗の名だった10代の頃から70年も描き溜めてきた全ての写生帳を失う悲劇に遭遇する。


この時北斎は一本の絵筆を握り締め


「だが、わたしにはまだこの筆が残っている」


と気丈に語ったという。


この後、火災の教訓からか、北斎は自分が培った画法を

後世の若い画家に伝える為、絵の具の使い方や遠近法に

ついてまとめた『絵本彩色通』や手本集『初心画鑑』を描き残した。


この時すでに87歳。なおも、弟子が長旅をする時は、

現地の特産品や魚介の写生を依頼するなど、北斎の絵に対する

執念は衰えなかった。


1849418日、浅草の聖天町・遍照院(現浅草六丁目)境内の

長屋で病み、生を終える。享年88歳。

死を前にした北斎はこう呟いた。


「あと10年生きたいが、せめてあと5年の命があったら、
本当の絵師になられるのだが」


この偉大な絵師は、最後の最後まで修業をしていたのだった。



最後までお読み頂きありがとうございました。


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