世界一有名な日本の画家、江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎。
小さい頃から手先が器用だった北斎は、14歳で版木彫りの仕事につく。彫りながら文章や絵に親しむうちに“自分でも描いてみたい”と思うようになり、1778年(18歳)、人気浮世絵師の勝川春章に入門。
向上心と好奇心に富む北斎は、浮世絵に飽き足らず、師に内緒で狩野派の画法や司馬江漢の洋画も学んだ。
やがてこれが発覚し春章から「他派の絵を真似るうつけ者!」と破門される。
生活に窮した北斎は、灯籠やうちわの絵を描いたり、時にはトウガラシや暦(こよみ)を背負って行商するなど、
「餓死しても絵の仕事はやり通してみせる」と
腹をくくり、朝の暗いうちから夜更けまで筆を走らせたという。
一方、貧乏生活は続いており、北斎は自分の描きたい絵ではなく、本の挿絵、役者絵、美人画、武者絵、果ては相撲画まで、内職として手当たり次第に描くしかなかった。
「私は絵を描く気違いである」と
宣言し、名前を“画狂人”とした時期もあった。
何か、岡本太郎とその人生観が似ていますね!
しかし、誇りは高かった。
ある時、長崎のオランダ商館が作品を高値で買い上げてくれた。
その絵を見た他のオランダ人医師が同じ絵を注文したが、
絵が完成すると“半値にしてくれ”と北斎に値切ってきた。
怒って絵を持ち帰った北斎に、妻が“半値でも生活の足しになったのに…”と言うと、「同じ絵を相手によって半値にすれば、日本の絵描きは掛け値の取引をすると言われる。
この様な事は絵師のみでなく、日本人全体の信用に係わる大事なのだ」と応えた。
またある時は、大名の使者が絵の依頼をしてきたが、その頼み方があまりに横柄で高飛車だったので、そっぽを向いた北斎は、一言も返事をせず使者を家から叩き出したという。
軽妙で自由奔放な筆運びから、北斎は“森羅万象を描く絵師”とまで言われた。
西洋に輸出された日本陶器の包装紙に『北斎漫画』が使われ、そのデッサンの秀逸さに驚嘆した仏人の版画家が画家仲間に教え、そこから空前のジャポニスム=日本ブームが広まったという。
北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残し、しかもそれぞれが北斎の情念のこもった一流の作品となった。
北斎には驚くようなようなエピソードが多くある。
引越し記録93回引越し魔の北斎は、1日に3回も転居したことがあったという。
また、名前の変更も30回に及んだ。
これは、様々なジャンルに挑戦する過程で、真の実力を世に問う為に新人の振りをして画号(名前)を変えたことによる。“
幽霊役で人気だった歌舞伎役者の尾上梅幸が北斎に画を依頼したことがあった。
ところが招いても北斎がまったく来ないため、輿に乗って北斎宅に訪問した。もともと貧しい家で、掃除もしたことのない荒れ果てた室内に座った。
一礼しようとすると北斎は「失礼だ」と怒り出し、机に向かって相手もしようとしなくなった。ついに梅幸も怒って帰ってしまった。
後日梅幸が非礼を詫びると二人は親しくなった。普段の北斎は横柄という事はなく、「おじぎ無用、みやげ無用」と張り紙するように形にはこだわらない人物だった。
続きは、
「富士といえば北斎」の名声を確立し、生活も豊かになるはずだが、
その生活は・・・
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