こんにちは、yukiです。
岡本太郎と聞いて何を想像しますか。
渋谷駅のプロムナードにある巨大な壁画は、人々を圧倒します。
凶器のようなエネルギーを撒き散らし、とにかくすごい作品を創る。
ほかの芸術家といわれている人と全く違います。
この岡本太郎はどうして、このようなエネルギーを手に入れたのでしょうか、
興味が湧いてきました。
父は漫画家、母は作家
太郎は神奈川県川崎市で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に一人息子として生まれた。
父・一平は朝日新聞で漫画漫文という独自のスタイルの連載を行い、人気を博し有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを使い、家の電気を止められてしまうこともあった。
滞仏生活でピカソ発見
父・一平が朝日新聞の特派員として、イギリスの取材に行くことになり、太郎も東京美術学校を休学し、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。
1930年(昭和5年)1月にパリに到着。太郎は以後約10年間をパリで過ごすことになる。
半年後にはソルボンヌ大学で学ぶようになる。太郎は「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため。
芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄った画廊でピカソの作品を見て、太郎は強い衝撃を受ける。
そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。
1942年(昭和17年)、徴兵令状を受け取り、中国戦線へ送られる。
日本美術界へ挑戦状
1945年(昭和20年)、日本の降伏により第二次世界大戦は終結。太郎は中国で1年ほど俘虜生活を経たのち帰国するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。
1947年(昭和22年)、太郎は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。
太陽の塔でビックリさせる
1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、主催者(国)は紆余曲折の末、シンボル・タワーの制作を岡本太郎に依頼した。
太郎は承諾し、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。そうして出来上がったのが巨大なシンボル・タワー『太陽の塔』である。
これは、当時の知識人たちから「牛乳瓶のお化け」「日本の恥辱」などと痛烈な批判を浴びた。
しかし太郎は、「文明の進歩に反比例し、人の心がどんどん貧しくなっていく現代に対するアンチテーゼとしてこの塔を作ったのだ」と反論した。
「国の金を使って好き勝手なものを造った」という批判に対しては、「個性的なものの方がむしろ普遍性がある」と反論した。
この太陽の塔は、解体されそうになり、保存運動で何とか、そのまま維持された。
そのとき、芸術作品を壊そうとするなんて、日本人はおかしいと、太郎は噛み付いた。
趣味はピアノ
太郎の趣味はピアノを弾くこと。太郎は1930年代の滞欧時代からピアノに親しんでおり、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。
とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。
太郎のピアノの腕前はプロ級と言われており、その演奏はほとんどが暗譜であったという。
ピアノを弾くときの顔はどのような顔であるか、私は大変興味があります。
世間に対し、太郎は本心で発言しているのだが、世間はまたパーフォマンスと受け止め、太郎をいらだたせた。
事実、彼の作品の評価が定まってきたのは、最近のことで、
海外では巨匠なのに、日本では変人との見かたが多かった。
しかし、愛すべき芸術家岡本太郎の発言には、本音で対峙する凄みがある。
すこし太郎と向き合って、彼の発言を聞いてください。
「ズバリ答えよう。金と名誉を捨てたら人間の「生命」がのこるんだ」
「精神の自由さから来るデタラメこそが真の芸術である。」
「友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、本当の意味でみんなに喜ばれる人間になれる。」
「人生に命を賭けていないんだ。だから、とかくただの傍観者になってしまう。」
「自分という人間をその瞬間瞬間にぶつけていく。そしてしょっちゅう新しく生まれ変わっていく、エネルギーを燃やせば燃やすほど、ぜんぜん別な世界観が出来てくる。」
「僕は流れるって感じが好きなんだ。固定したものは全然つまらない。人生だってそうだろう?いつも流動的で、何が起こるかわからない。だから面白いんだ。」
「挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままオリてしまったやつには新しい人生などはない。」
「自分に能力がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければなおいい。決意の凄みを見せてやるというつもりで、やればいいんだよ。」
「人間にとって成功とはいったいなんだろう。 結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。」
いかがでしたか。
太郎は一生挑戦を続けた。死ぬまで。
最後までお読み頂きありがとうございました。
また、遊びに来てくださいね。

