こんにちは、yukiです。
今日は尾崎行雄さんの反骨の精神で切り開いた人生を振り返ります。
「人生の本舞台は常に将来にあり。」
尾崎行雄
1858年、相模国(神奈川県)津久井群又野村に生まれる。
1876年、当時の帝都四大新聞の一つ曙新聞に、尾崎の投書した「討薩論」が掲載され、大きな反響を呼ぶ。
そして79年、福沢諭吉の推薦で、新潟新聞の主筆となる。
年、大隈重信を総裁とする「立憲改進党」の結成に、尾崎は犬養毅らと共に携わる。その頃から尾崎は雄弁家として名を馳せ、犬養と共に各地を遊説。
1882
1890年、第1回総選挙実施。尾崎は三重県から立候補し圧倒的多数で当選。
1892年、第2回総選挙が実施されるが、これが歴史に残る「選挙大干渉」となる。
尾崎も中傷・妨害を受けたが、苦闘の末、なんとか当選。
その後の議会でも、尾崎は軍閥・藩閥を攻撃する演説を積極的に行なう。
1898年6月、日本で初めての党による内閣が成立。大隈重信が首相に、板垣退助が内務大臣に、そして尾崎は文部大臣となった。しかし同年8月、「共和演説事件」が起こり、10月、尾崎は文部大臣を辞職。
1903年、尾崎は東京市長に就任。市の改善に積極的に努力、さらに多摩川水源林調査に着手し、市の水源林を買収確保する。現在の山梨県側の多摩川源流地域は東京都の所有になっている。
1909年、米国大統領タフト氏夫人が、日本の桜を米国の首府ワシントンのポトマック河畔に植えたいと希望していることを知り、尾崎は2000本の苗木をワシントンに送る。
その後の苗木検査で害虫が発見されすべて焼かれてしまう。
残念に思った尾崎は、健全な苗を育てさせ、1912年、今度は3000本を送る。
苗木は無事育ち、現在も見事な美しさでポトマック河畔の春を彩っている。
代わりに、米国からハナミズキが贈られた。
1931年、カーネギー財団に招かれ米国に滞在している時、満州事変勃発の報を聞いた尾崎は、「日本は間違っている」と主張。
1942年、翼賛選挙に反対し東条首相に公開質問状を送り、また同年、選挙中の応援演説がもとで不敬罪で起訴された)。
1952年、衆議院より功労者として表彰される。同年病床より立候補し当選(第1回より連続25回当選)。翌53年4月、吉田茂首相によるバカヤロー解散で行われた第26回総選挙において初めて落ち、引退した。
10月に東京都名誉都民(第1号)となる。「憲政の父」と仰がれつつ、翌54年10月、逗子の風雲閣にて永眠(享年95歳)。
尾崎の言葉はいつも、辛口、辛辣であるが、日本のが育て言ってほしいとの
願いがこめられている。
かれの言葉から本当に憲政の発展を祈る気持ちが伝わります。
「良いを作ることはまことに容易なことである。
しかしこれを行うことは非常に難しい。」
「自尊心のある人は力に屈しない。
自尊心のある人は金銭に迷わされない。
比較的精神のないことが、日本人に共通の欠点であるとは、敗戦後の日本を観察した外国人の定評であるが、その原因は、日本人が自尊心にかけていることにある。」
「私たちに、過去の舞台を後悔したり、懐かしんだりしている暇はないのです。人生の本舞台は常に将来にあり。」
この言葉は近頃の永田町の人々について、不心得ものばかりと、
言っているように聞こえます。
尾崎さんの心配ごとにならないように、自尊心を持ち、
周りに迷惑を掛けないように
しましょう。
最後にこの言葉を贈ります。
「人間は、齢を重ねれば重ねるほど、
前途が益益多望なるべき筈のものだというのが、
私の最近の人生観である。
人間にとっては、知識と経験ほど尊いものはないが、
この二つのものは、年毎に増加し、
死の直前が二つ共最も多量に蓄積された時期である。
ゆえに適当にこれを利用すれば、
人間は、死ぬ前が、最も偉大な事業を
起こし得るべき時期であるに相違ない。」
大変心に響くことばですね。
最後までお読み頂きありがとうございました。
また、遊びに来てくださいね。
